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世界記念平和聖堂の魅力を探る|建築家 村野藤吾

瀬戸内の名建築(広島県

建築家村野藤吾による名建築世界平和記念聖堂
原爆ドーム

原爆ドーム

世界平和記念聖堂は、被爆者でもあったフーゴ・ラッサール神父の熱意によって始まった被爆者のための霊を慰める聖堂計画。
神父は教会の再建にあたり、自分の属するイエズス会に働きかけ、ローマ法王ピオ12世を動かし再建を具体化させた。そして、世界平和の象徴としての聖堂をコンペで建てることにした。コンペは1948(昭和23)年4月6日付けの朝日新聞紙上で公募され、6月10日に締め切られた。

聖堂復興コンペの内容

主要な施設は聖堂、講堂、司教館であり、設計主旨として
本計画に於ては優れた日本的性格を発揮すると共に戦後日本の新しい時代に応ずる提案を望んでゐる。此の主旨に基いて下記の要項を掲げる。

1.聖堂の様式は日本的性格を尊重し、最も健全な意味でのモダン・スタイルである事、従って日本及び海外の純粋な古典的様式は避くべきである。
2.聖堂の外観及び内部は共に必ず宗教的印象を与えなければならない。
3.聖堂は記念建築としての荘厳性を持つものでなければならない。以上のモダーン、日本的、宗教的、記念的と云う要求を調和させる事が此の競技設計の主眼である。
 
審査員は8名で行われた。
堀口捨己、吉田鉄郎、村野藤吾、今井兼次、フーゴ・ラッサール、グロッパ・イグナチオ(イエズス会の教会建築士)、荻原晃(カトリック広島使徒座代理)、後援者側から朝日新聞社員1名
 
賞金総額30万円(当時としては破格であった。※当時の国家公務員初任給2,900円)

コンペの結果

参加登録1309名、規定による応募図案177点
・審査結果
 1等:該当者なし
 2等:井上一典、丹下健三(賞金5万円)
 3等:衛藤右三郎、菊竹清訓、前川國男、米澤廸雄(賞金2万円)
 佳作:8名(賞金5千円)、準佳作:20名(賞金4千円)
審査員たちは全員の総意として1等該当なしとした。十数回に及ぶ議論と参考採決を実施。堀口捨己氏は丹下健三作品を最優秀と推したが、教会の支持を得るまでには至らなかった。なお、1等賞金10万円は3等1名と準佳作20名を増加し対応している。

井上一典趣旨
意匠は所謂"様式”としてではなく、構造、材料の素地を各建物の目的(平面・断面)のままに表現。
 

世界記念平和聖堂の井上一典 建築図案
丹下健三趣旨

鉄とコンクリートとガラスの建築をもって現代の教会はつくられるだろう。
 

世界記念平和聖堂丹下健三案

丹下健三氏は、現代の教会建築のあり方にとって近代技術とその合理性を基礎とすることを第一の根本的な原理と考えねばならないとした。


1等当選なし

1等当選ナシとは、審査委員会でいったい何があったのか。委員の間で、大きく評価が分かれた。建築家四人のうち、堀口審査員は丹下案を一等、前川案を二等に、吉田審査員は前川案を一等、丹下案を二等に推した。これに対して村野審査員と今井審査員は反対だった。
 
村野審査員は、モダーンと日本的の矛盾しがちな二項がどう扱われたかについて、「新しい傾向の建築的操作によって、簡単にそれ(矛盾)を超克し、或は事更に之を回避して居た」と批判し、さらに加えて「審査中に困ったことは、図面の仕上げ方で、影などが真っ黒に塗られたりして、多大な努力を払われた様に思われるが、其の割に、見る方では左程の効果を感じないし、いつまでもコルビュジエの建築の構想から図面の仕上げの末端に至るまでつきまとって居るのには驚きもする。……いい加減捨象されていいのではないか」
 
今井審査員は、モダーンばかり強調され、日本的、宗教性、記念性の三つがはなはだ弱いと批判した。
 
 村野審査員も今井審査員も、コルビュジエ的デザインや、日本的、宗教性、記念性の欠落を批判するものの、1等当選ナシとまで決めるつもりはなく、丹下案か前川案のどちらかで妥協しても良いと考えていたみたいだ。
 
このようなことはコンペならよくあるし、1等当選ナシではコンペの基本理念に反するからである。にもかかわらず、ナシに決まったのは、教会側委員の丹下案への強い反対だった。

1等なしの理由

教会代表の講評には「まさしく優れた創造的建築技術作品である。けれども海外の同類の聖堂建築が全世界のカトリック方面がたの強い反発と拒否に合った」とし、実施できないと記されていた。

今井審査員は「歴史的な様式の継承のみを主張するのみではなく又余人を驚愕せしめるような主観的革新的な実験を試みんとすることはカトリック聖堂に希求すべきことではない」という言葉を講評に引用している。
 
同類の聖堂とはオスカー・ニューマイヤーが手掛けたブラジルの聖フランシスコ・デ・アシス聖堂である。

聖フランシスコ・デ・アシス聖堂
聖フランシスコ・デ・アシス聖堂

1943年ブラジル南東部ベロオリゾンテに建設された放物線状シェル構造の教会。カンディド・ポルチナーリの巨大なフレスコ画、屋外のモザイクを伴った4つの波状コンクリートが放物線状になっているのが特徴的。
脚部から頂部に向かって上広がりになっている鐘塔等、当時の教会建築とは大きく違う独特の様式は、当時から様々な論議を呼んだ。
丹下健三氏はこの聖堂の放物線アーチを気に入っており、コンペ案の制作に際し想を得ていた。

前年、ローマ法王ピオ12世は、広島のコンペをにらんでのことと思われるが、「最近ある人によって教会内に入れられた芸術様式は真の芸術をゆがめたものとしか思われない」との一文を発し、それは広島に届いていた。
 コンペの後、ローマ法王ピオ12世の勅文を前に、堀口審査員は「私共は、私共が最も優れた案と思うものが、一等になれないならば、せめてその上に位する何ものもない事を望んで、引き下がったのである」と語った。


世界平和記念聖堂の設計

1等なしのため、コンペ案は採用されなかった。ラッサール神父の頼みで村野藤吾氏が設計することになった。コンペにて1等がないうえに、コンペの審査員が設計することになったことで建築界の批判の的となった。
 
建築界から批判の的となった村野藤吾氏であるが、村野氏が描いた設計案も、神父たちに受け入れられなかった。特に関東大震災で倒壊した上智大学再建のためにドイツから派遣された建築家のグロッパ・イグナチオ神父が厳しかったようで、村野藤吾氏は「いくつかのスケッチを見せたが、プランは褒められるけど外観はどれも駄目だった。最後にやめる決心でもって行ったのが今の様な形になった」と後述している。

イエズス会聖ヨハネ修道院西日本霊性センタ-

広島市にあるグロッパ・イグナチオ神父設計の和風建築のイエズス会聖ヨハネ修道院(HPより)

ラッサール神父は坐禅を宗教生活に取り入れて実践。日本に帰化するなど禅宗や日本文化に強い興味を抱いていた。聖ヨハネ修道院のように聖堂の外観は瓦などを使った純和風の日本風聖堂を望んだのかもしれない。

平和記念聖堂建設

工事は清水組(現清水建設)が受注。戦後5年後の1950年10月に着工したが、同年6月に勃発した朝鮮戦争の影響で物価が高騰(鉄の価格は4~5倍になった)。折からの資材不足に加え、資金にも息詰まり、工事は幾度となく中断を与儀なくされた。
 
工事主任の菊池辰弥は見積もりはしたが、いかに実現させるかが問題となっていた。寄付で建設するため更改契約もままならず清水康雄社長に報告すると、社長は「損得を抜きにしてやろう、この仕事は名誉なのだ」と語り、現場を支えた。

また、現場でのコスト削減策も積極的に進めていき、煉瓦の代わりにモルタルで造った質素な「軽量モルタル煉瓦」を採用。しかも、煉瓦を購入すると高くなるので、現場で24万個を製作した。村野藤吾氏はあえて目地モルタルを大きくはみ出させることで、壁に細かな陰影を付けて深みをもたらすとともに、人の手の暖かさを感じます。
竣工時に村野藤吾氏は「10年後になったらなんとかみられるよになるでしょう」と述べ、この建築の設計テーマにとって「汚れ」が武器になることを意味しつつも、苦労して設計、建築をおこなった建物に対し、竣工後は使う人によって本当の建築になることも示唆していた。

世界平和記念聖堂

陰影のある壁

建物の外観には、鉄筋コンクリートの柱と梁があらわれていて、その隙間に軽量モルタル煉瓦を積み上げ、モルタル煉瓦の後ろには鉄筋コンクリートの壁の構造壁があり、柱・梁と一体化して建物を支えている。現地は中洲のため軟弱な地盤に杭打ちをしていないため、いわば巨大な箱のような構造としている。構造設計は内藤多仲(後に東京タワーの構造設計を実施)がおこなっている。
注文者、設計者(デザイナーの建築家、構造設計のエンジニア)、施工者の三位一体となってできた聖堂であった。


デザインの特徴

コンペの不透明性より、当時の日本建築学会の会長である岸田日出刀氏から批判を受けながらも、竣工後の翌々年には日本建築学会学会賞を受賞するなど、実現した村野藤吾氏の作品は誰もが瞠目する優れたものであった。

コンペの条件への対応

建築家村野藤吾による世界記念平和聖堂

・近代(モダン)スタイル
コンクリートという工業的な材料を使った不燃化と耐震化。全体として装飾が少なく幾何学的な形態
・宗教的な印象
三廊のバシリカ平面、フライングバットレス、十字架のある鐘塔
・記念的特徴
全長57m高さ20m(鐘塔45m)の規模はマッシブな印象を与えて建物の存在感を意識させている
・日本的要素
外壁の柱梁とモルタル煉瓦は木造建築の真壁構造に似せている
ドームの頂点に載る鳳凰やエントランスの各天井、欄間など各所で表現させている

聖堂正面の壁面は、日本的要件を象徴的に十分に満たしていることを示している。壁面より突出した煉瓦をまばらに配置し表面に陰影をつけ建物を柔らかく見せている。また、欄間という西洋の教会建築にはない日本的なアイデアは聖堂に東洋的、寺院的雰囲気を漂わせている。また、神社などのように聖堂の前に橋を設置するなど空間構造の観点からも日本的特徴を与えている。

欄間の彫刻は今井兼次氏によって構成。彫刻家武石三郎氏によって模型が制作され、円鍔勝三氏と坂上正克氏によって拡大制作された。

世界平和記念聖堂
世界平和記念聖堂

壁面には家紋の一つである木瓜紋を随所に取り入れている。
 
モダンでありながら荘厳、粗削りな素材を並べただけであるが力強く神々しい、どことなく日本的といった複雑な構成によって出来上がった聖堂は村野藤吾氏が被爆地での祈りの場がどうあるべきかを熟考した結果と捉えることができる。
 
日本建築学会の推薦理由は下記のように評されていた。

村野氏の清新にして滋味溢れる作風を最もよく示している代表作としていいであろう。鉄筋コンクリートの健康な肌をそのまま露わしているフレームワークは、その全体を貫く造形上の主調であるが、それは日本人により親しみやすい風味を出している。また、壁面の灰色の煉瓦は全体として穏やかで平和な感じを出すのに役立っている

聖堂がコンクリートの新しい手法でつくられた新しい時代の宗教建築であることが評価された。
 
コンペの失敗による建築業界からの批判、施主への度重なる図面の提案、建築資材の高騰による建築工事の中断や施工の見直しなど非常に厳しい環境にありながらも、竣工することができたのは村野藤吾氏を中心に三位一体となって取り組むことができたためであろう。
 
コルビュジェ的作法を熟知したうえであえて反コルビュジェの立場に立ち、建築を人間の手の届く範囲に納めようとした村野藤吾氏だから、様々なデザインが組み合わされ親しみやすい風味を出した世界平和記念聖堂をつくることができたのではないだろうか。

世界平和記念聖堂
世界平和記念聖堂 鐘塔

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