兵庫の名建築

洲本図書館

洲本図書館は、旧カネボウ洲本工場の保存、再生の一環としてつくられた図書館です。図書館建築のパイオニアであり、エキスパートの鬼頭梓による名建築である洲本図書館の魅力をみていきます。

鬼頭梓

鬼頭梓が設計した日野市立中央図書館

日野市立中央図書館


 

1926年 東京吉祥寺生まれ
1950年 東京帝国大学第一工学部建築学科卒業
     前川國男建築設計事務所に入所
     多くの公共建築や図書館建築を担当
1964年 前川國男建築設計事務所を退所し独立
1968年 東京経済大学図書館竣工
1992年 JIA会長に就任
2005年 函館中央図書館竣工
最後の函館中央図書館まで30以上の図書館を設計してきた
2008年 逝去82歳

前川國男建築設計事務所時代には、神奈川県立図書館や国立国会図書館などを担当。独立後の最初に手がけた東京経済大学図書館の評価は高く、これを契機に公共図書館および大学図書館の設計の特命依頼が相次ぐことになり2005年の函館中央図書館まで30以上の図書館を設計してきた。戦後の図書館建築のパイオニアでありエキスパートであった。

日野市立中央図書館

鬼頭梓氏にとって「人生を賭けた挑戦であった」と述懐している図書館となったのが日野市立中央図書館であった。
 
それは、戦前の公立図書館は、書庫が中心の閉架式であり、書架が外部からの閲覧者に公開されておらず、職員に出納を依頼してから本が出される方法となっていたが、日野市立中央図書館では、だれもが自由に本を閲覧できる開架式を採用した図書館となっており、それは「民主主義の時代」を象徴する図書館として、その後の図書館設計のあり方を変えることとなった。
 
これには、日野市の図書館長として招聘され、欧米の図書館を視察してきた前川恒雄館長の存在があった。前川館長はこれまでの日本の図書館のあり方に疑問を持ち、図書館を「知識・情報への容易なアクセスを保障するシステム」と捉え、図書館新設に際し「新しい図書館サービスを形にする、利用しやすく働きやすい、システムの変化に対応できる、歳月を経るほど美しくなる」などの基本方針をたて図書館計画をすすめていった。それにふさわしい建築家として東京経済大学図書館を設計した鬼頭梓氏を指名した。
 
鬼頭梓氏も前川館長の考えに共感し、市民のだれもが等しく利用できる公共空間として、民主主義の根底を支える図書館をつくっていった。

洲本図書館ができるまで

カネボウ洲本工場(旧鐘淵紡績)

1905(明治42)年に地元の要請のもと最新鋭の紡績織工場として完成した第2工場を皮切りに、明治末期から昭和初期にかけて、第3~第5工場を増築していった。1937(昭和12)年には、精紡機128,820錘、織機2,410台と国内最大級の綿紡績工場となった。それらは鋸屋根を持つ煉瓦建築群として威容を誇っていました。しかし、経済の構造変化により1986(昭和61)年に操業を停止し、工場群はそのまま放置されていました。

鐘紡洲本工場(明治時代の写真)

工場内中央広場(第2工場・ボイラ室)

図書館計画

地元有志の積極的な保存活動もあり、これらの遊休地の活用と旧洲本港埋立地を含め、洲本市とカネボウとの共同で開発整備を進めることとなり、明治に建設された歴史と味わいのある赤レンガづくりの重厚な施設の一部が観光や文化の拠点施設として整備されることになった。
 
1994年に洲本図書館ビジョン委員会より「求める洲本市の図書館像」が答申される。1995年には指名9社によるプロポーザルが実施された。メンバーは、図書館長や行政の担当者に加え、二人の図書館専門家と「新しい図書館をつくる会」の市民団体のメンバーにより審査が実施され、鬼頭梓建築設計事務所が選ばれた。
 
この体制で約10ヶ月かけ基本設計がまとめあげれらたが、それぞれの意見を取りまとめ、図書館と旧カネボウ工場が呼応する形での新しい再生により、町の歴史を継承する図書館が設計された。

洲本図書館の特徴

既存建物の保存と設計

ここでの図書館設計は、百年近い風雨に耐えた深い味わいを醸した煉瓦による重厚で高潔ささえ感じさせる旧カネボウ工場の建物と図書館との融合でもあった。
 
プランニングでは、ゾーニングや動線計画などいくつもの問題を解決する必要があった。そして工場内に図書館のモジュールとは全く無関係に存在する既存煉瓦壁を、可能な限り残すために図書館モジュールと整合する公約数を探していくこととなった。
 

洲本図書館

煉瓦を活かしレストランなども整備された工場跡地

 
工場広場に建つ塵突(綿ぼこりを外部に排出する構造物)をランドマークとして残し、周辺の組積造煉瓦建築群全体の保存を提案した。図書館は工場全体を整備し、その中に新しい機能を用途を嵌め込んでいくという当初の全体構想に基づき旧第2工場の一画につくられた。
広大な河川跡地には、第2工場から第5工場まで紡績工場が次々と建設されていった。最初に建設された第2工場は蒸気機関で稼働していた。
 
洲本アルチザンスクエアとして活用されている部分は「汽缶室」(水を沸騰させ蒸気を出す部屋)と「汽機室」(蒸気の圧力で回転運動を得る部屋)にあたる。
蒸気機関から得られた回転運動は、伝動ベルトによって直接、各紡績機へと伝えられた。
旧カネボウ工場配置図

旧カネボウ工場配置図

工場広場に建つ塵突(綿ぼこりを外部に排出する構造物)をランドマークとして残し、周辺の組積造煉瓦建築群全体の保存を提案した。図書館は工場全体を整備し、その中に新しい機能用途を嵌め込んでいくという当初の全体構想に基づき旧第2工場の一画につくられた。

中庭

既存の煉瓦壁に開けられた開口を抜けると、再生煉瓦を敷き詰めたスクエアを新しい図書館の外壁と旧構造の煉瓦が囲んでいます。
洲本図書館

洲本図書館概略図

塵突の足元には美しい煉瓦アーチの模様が描かれています。また、図書館の新しい壁には既存煉瓦と穏やかに調和するよう、経年変化で風合いを増す土とセメントを混ぜた疑土仕上げの土壁を採用しています。
 
この疑土仕上げの土壁は、この島の気候風土を知り尽くした地元の左官職人と農家の古い納屋に残る土壁を見て周りながら、ここに合う色と風合いを決め、その職人の繊細な調合により仕上げられています。
洲本図書館煉瓦壁

アーチの模様が美しい煉瓦壁

洲本図書館の新しい壁

疑土仕上げの壁

図書館北側に設けた植栽を施した中庭は、北側からの優しい光を室内に入れると同時に、利用者がブラウジングしながら奥へ進むと眼に優しい庭となっています。
 

洲本図書館の北側

中庭3は、発電機棟と第2工場の間に出来た狭間を借景とした中庭となっています。既存煉瓦壁と図書館の主構造材との間に掛けわたされた大型トップライトが、その巾を保ったまま床まで降りて発電機等を屋根まで見上げることができる大開口と、美しい狭間を小さく切り取れるピクチャーウィンドウとなっています。

洲本図書館
洲本図書館

煉瓦壁の補強

L型フックを煉瓦に取り付け、内部に新設されたコンクリート躯体と一体化する方法を採っています。この部分は煉瓦壁に設ける開口の大きさがプロポーションの制約を受けるため、主構造部を煉瓦壁から3m後退させ、特殊合わせガラスを使用し熱負担を低減した大型トップライトにより自然光を取り入れています。

保存と再生

洲本図書館での保存と再生は、新旧が呼応し合う空間を創出することで、カネボウ洲本工場の一部に新たな命を吹き込んでいます。それは形態だけでの保存を優先させて、図書館機能を犠牲にすることも、図書館機能を優先させての不要な破壊や、見せかけだけのレトロな復元でもなかった。
 
そこには「デザインの自由は、常にクライアントと社会のために行使されるという限界を超えることは許されない」と常々語っていた鬼頭梓氏の思想が実現されていた。
 
必要と判断すれば煉瓦壁を切断し、孔を開け、積み直しをしているが、取り除けられた煉瓦9万本は、塊から一個づつ丁寧に外し、超音波でケレンして中庭などに敷き詰められています。そこには先人の仕事に敬意を払い、元の形が変わろうと、新しい建築としての生きた再生となったのではないのでしょうか。
 
中庭から見た洲本図書館


Related Sites

瀬戸内には1950年代から60年代にかけての丹下健三の初期の名建築が点在しています。初期の作品はル・コルビュジエの影響を色濃く受けながら、日本的要素を融合させた作品からブルータリズムへと転換していく過程を楽しむことができます。

高松市には1950年代から70年代前半にかけてのモダニズム建築が点在しています。香川県庁舎から始まった戦後復興はル・コルビュジエの影響を色濃く受けながらも、次第に地元の風土に根ざした建物へと転換していく過程を楽しむことができます。

 

同じル・コルビュジエ建築に憧憬を持った同世代である東京大学教授の丹下健三氏は神聖な造形美、モニュメンタルな建築を主体とした。一方の京都大学教授の増田友也氏は哲学的思考に基づく建築論を専門とし静かな存在感を主体としていた。鳴門市文化会館は増田友也氏による渾身の遺作となった。