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旧倉敷市庁舎(現:倉敷市立美術館)の魅力を探る|建築家 丹下健三

岡山の名建築

建築家丹下健三による旧倉敷市庁舎

旧倉敷市庁舎建設

1958(昭和33)年水島臨海工業地帯を含んで発展を遂げていた倉敷市の都市構想の一環として計画された倉敷市庁舎は、街の中心部にある伝統的街並みの倉敷美観地区に隣接する小学校跡地に建てることとなった。

倉敷美観地区周辺地図

設計者決定の経緯

浦辺鎮太郎氏への相談

当時の高橋勇雄倉敷市長は同級生である倉敷絹織の浦辺鎮太郎営繕技師に相談した。そこで浦辺氏は「丹下先生に頼もう」と丹下健三氏を推薦したが、推薦した理由は「予算が少なかったから」とのことであった。
この推薦理由の真意は不明であるが、色々と考えられる。
 

  • 有名になっていた丹下健三氏を登用することで、予算が確保できる可能性がある。
  • これまで丹下健三氏が手掛けた庁舎などでは施工会社が比較的低く応札していた。
  • 丹下健三氏を登用することで倉敷の宣伝効果が見込め、観光の街として相乗効果がはかれ費用対効果が見込める。

丹下健三氏への依頼

そして、高橋倉敷市長は倉敷絹織株式会社の大原総一郎社長とともに市庁舎建築のお願いにいった。大原社長はその場で「今度の市庁舎は決して町家の方を向く必要はありません。町家が市庁舎に向くようにしてください」と話し市庁舎設計の依頼をおこなった。

白壁となまこ壁が続く家並みと倉敷川沿いの柳並木、大原美術館という一般に定着した倉敷のイメージに加え、倉敷の新しいシンボルとしての建物が望まれていた。
設計を依頼された丹下健三氏は「倉敷市の伝統と近代的発展にふさわしい、しかも市民のよりどころになるにふさわしい建物をと思って設計した」と述べている。

倉敷美観地区街並み

倉敷美観地区街並み

喫茶店cafe EL GRECO

倉敷美観地区にある喫茶店cafe EL GRECO
薬師寺主計による設計

丹下健三の基本構想

都市における直角の軸と都市デザイン

倉敷市のようなスケールでは、一つの市庁舎の建設が、その都市の発展と成長のシステムを決定するほどのウェイトをもっている。そのため、市庁舎の設計にあたっては、それと同じようなウェイトのある道路の建設と有機的に関連づけることが重要であると考えた。最初に取り組んだのは、この建築が決定するであろう都市における直角の軸をどこに決定すべきかということであった。

竣工当時の倉敷市庁舎

竣工当時の倉敷市庁舎

丹下健三氏は市庁舎建設だけでなく、倉敷市全体を含めた都市計画の策定を検討していたが、空からみた倉敷の市街地はほとんどが木造家屋で占められておりランドマーク的なものがなく、都市デザイン立案の手がかりを発見することはできなかった。

市民広場の計画

市の中心部に市役所と公会堂で囲まれた市民広場を設け、鉄道と道路交通の結節点として駅前広場をつくり両者をつなぐ。名高い運河沿いの歴史的町並み地区は手を付けないこととした。

旧倉敷市庁舎図面

倉敷市庁舎と今治市庁舎は、ともに市庁舎、公会堂、市民広場を配置する計画となっていた(倉敷は市庁舎建設のみにとどまった)。開放的な広場が街路に直接面しており、市庁舎の玄関ホールと広場との位置関係は直列的であり、極めてシンプルな構成を取っている。また、広場は庭園的な造作を伴わない全くの平坦地となっていた。このようなオープンスペースは街路との間にピロティ的な空間を置き、そこから複雑な空間を巡るような流動性の高い倉吉市庁舎、香川県庁舎とは異なっていた。


丹下健三氏の転換点

作風の変化

1950年代広島平和記念資料館(1952年)清水市庁舎(1954年)倉吉市庁舎(1957年)東京都庁舎(1957年)香川県庁舎(1958年)などは桂離宮に着想を得た繊細な和風を加味したデザインを押し進め、世界の注目を集めるとともに、全国の庁舎建築のモデルとされてきた。しかし、倉敷市庁舎は従来とはまるで違う重量感のみなぎった作品となっていた。

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

香川県庁舎東館

香川県庁舎東館

時代の変化

1955年頃にイギリスから始まったブルータリズムと日本での民衆論と伝統論、そしてル・コルビュジエのインドでの都市開発は丹下健三氏の作品づくりに多大な影響を与えた。

ブルータリズム

第二次世界大戦後の経済復興のための早急な都市再建の必要性から用いられた建築素材がコンクリートやガラスなどの工業用に用いられた素材群であった。これらは従来の施工方法よりも工期を早めることのできる材料でした。
Brutal(ブルータル)は冷酷な、野蛮なという意味の単語。
コンクリートやガラス素材はモダニズムと類似していますが、直線的でシンプルなモダニズムに対して、ブルータリズムは有機的で彫刻のような造形のものが多く、造形のバリエーションが豊かになっている。

ル・コルビュジエとブルータリズム

ラトゥーレット修道院(ル・コルビュジエ)

ラトゥーレット修道院(ル・コルビュジエ)

ル・コルビュジエもブルータリズムを称賛。1952年のユニテ・ダビタシオンでは仕上げのされていない剥き出しのコンクリートの状態を「béton brut(ベトン・ブリュット)」(フランス語で生のコンクリート)と呼び最晩年までこの工法を採用した。

民衆論と伝統論

背景として明治以来国家や財界を向いていた建築家たちが、敗戦後に「民衆」へと方向転換していったこと。また、敗戦直後には発言できなかった「伝統」が1950年代に入って再び主題化し、戦前の伝統像とは異なる「民衆的伝統」が焦点化されていった。
 
そこから、縄文・弥生論争へと展開していった。

弥生が貴族的なもの、縄文は民衆的なものとし、荒々しく根源的な生成のエネルギーとしての民衆的伝統(縄文)を比例美学を中心とするモダニストの貴族的造形論(弥生)に対置し議論された。

縄文土器

縄文土器

弥生土器

弥生土器

丹下健三氏の挑戦

丹下健三氏は倉敷市庁舎の設計では香川県庁舎で結実した伝統を完成された「典型」として受け止める姿勢の乗り越えをはかった。この倉敷市庁舎について「東京都庁舎を日本の弥生的伝統の鉄による表現とすれば、香川県庁舎と倉吉市庁舎はコンクリートによる弥生から縄文への過渡期のものであり、この倉敷市庁舎は縄文的表現といえるかもしれない」と記している。
 
これは丹下健三氏が香川県庁舎までの開放的な空間の扱いに決別したことを物語るとともに、SRC造やP.S.造を用いて、これまでのRC造より遥かに緊張感の高い大スパン建築に挑戦するとともに、日本国内の耐震基準に合致させようとした。

ル・コルビュジエのインドでの都市計画

1947年にイギリスから独立したインド。インドの近代化を世界に示すため都市計画に取り組んだ。1951年から1965年に亡くなるまでチャンディーガルの都市計画に携わった。インドでのル・コルビュジエの空間は奔放でダイナミックなものであった。これらの作品群との共鳴から、丹下健三氏はブルータリズムと通底する荒々しい建築表現を求めるようになっていった。

キャピトル・コンプレックス

チャンディーガルの議会棟(インド:ル・コルビュジエ)

丹下健三氏は洗練されたモダニズムのデザインによって弥生とみなされていたが、倉敷市庁舎ではこうした潮流を踏まえ縄文的な民衆のパワーを取り込み両者を統合するような建築に舵をきっていった最初の市庁舎となった。

旧倉敷市庁舎の特徴

構造

主構造は現場打ちのコンクリートによるラーメン構造。副構造として、プレキャスト・コンクリートを用いている。建物の南北方向に約2mの梁が約20mのスパンで掛け渡されている。それを支える柱は太く、壁は厚く、それらが打放しのコンクリートによってむき出しでつくられている。

建築家丹下健三による旧倉敷市役所

スケール

建築家丹下健三による旧倉敷市庁舎

倉敷の低い家並みの中にあって、この市庁舎の大架構は衝撃的なものであった。三階建ての建物でありながら、普通の建物の五階分の高さがある。コンクリートの柱梁は、これまでの作品とは比べものにならないほどさらに強く逞しい表現となっている。

丹下健三氏は倉敷市庁舎ではスケール序列を考慮して設計された。市庁舎ー広場ー公会堂に対して、さらに市街地の家並みのひろがりとの関係において考えられた。そのため市庁舎の基本的構造体をマススケールをもったメジャーストラクチャとして考え、部分を構成するプレキャストをヒューマンスケールのマイナーストラクチャとして考え、その間の序列を考えることを一つのテーマとしていた。
旧倉敷市庁舎

旧倉敷市庁舎竣工当時

外観とエントランス

建築家丹下健三による旧倉敷市庁舎
市庁舎に面した広場(現:駐車場)を丹下健三氏は中世後期の民主的広場をイメージしていた。
広場に面した側の2階中央にはベランダがあり、市長などが広場に集まった市民に対し講演などをすることを想定したのかもしれない。

エントランスホールは10mを超える吹き抜けとなっており、それを支える大きな梁とともに開放感と迫力ある空間となっています。丹下健三氏は大架構のなかに自由な空間を提案していた。

旧倉敷市庁舎エントランスホール

議場(現:講堂)

旧倉敷市庁舎議場
旧倉敷市庁舎議場
教会の内部を思わせる議場(現:講堂)のデザインは、丹下健三氏が建物の内部空間においてもっとも力を入れた部分のひとつです。ル・コルビュジエからの影響が見られる。

市庁舎から美術館へ

人口増加に伴う移転

1967(昭和42)年、旧倉敷、児島、玉島の3市合併により倉敷市の人口は、17万人から30万人へと増加。1980(昭和55)年市役所としては手狭となったことより、約1km南に新市庁舎が移転することになった。その結果本館の市庁舎としての生命は、丹下健三氏の庁舎建築の中で最も短命となりました。

美術館としての再出発

郷土出身の日本画家・池田遙邨による倉敷市への作品寄贈がきっかけとなり、1983(昭和58)年、美術館として再生された。
改築の設計を担当した浦辺鎮太郎氏は可能な限り丹下建築の特長を残しながら美術館としての機能をもたせることに努めました。こうして旧市庁舎は「現代の校倉造り」と呼ばれた外観をほとんど損なうことなく、美術館として再出発したのです。
 

旧倉敷市庁舎(倉敷市立美術館)概要

住 所:岡山県倉敷市中央2丁目6番1号
電 話:086-425-6034
休館日:月曜日
設 計:丹下健三研究室
施 工:株式会社大林組
竣 工:1960(昭和35)年6月11日
敷地面積:15,550.52平方m
建築面積:2,088.00平方m
建築延面積:7,325.53平方m
構 造:鉄筋コンクリート造、地下1階地上3階建
建築費:188,000,000円


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同じル・コルビュジエ建築に憧憬を持った同世代である東京大学教授の丹下健三氏は神聖な造形美、モニュメンタルな建築を主体とした。一方の京都大学教授の増田友也氏は哲学的思考に基づく建築論を専門とし静かな存在感を主体としていた。鳴門市文化会館は増田友也氏による渾身の遺作となった。