丸亀高校武道館は、金子香川県知事から丸亀高校の全面的な建て替えを依頼された大江宏氏により校舎、体育館とともに設計された武道館。香川県文化会館と同様に鉄筋コンクリートの骨組の中に木造の造作がはめ込まれた混在併存の魅力をみていきます。
![建築家大江宏によりつくられ丸亀高校武道館](../_src/79194227/img_20231123_120544668_20240517053008491.jpg?v=1719364361645)
混在併存
1958年大江宏氏は、校舎の建て替え計画を依頼された香川県立丸亀高等学校を訪れた。丸亀城のふもとに建つその校舎は、明治20年代頃のであり、設計者の名も明らかではない無名の建築であった。
それは、近代建築のセオリーから逸脱し、正確な様式建築でもなく、洗練からは縁遠い細部をもつ校舎が、人々と結ぶ関係性においては他をもって代え難い魅力をたたえていることに、大江宏氏は深い感銘を受けた。
いかにしてこの魅力を現代の建築に持ち込むことが出来るのか。香川での体験を通して、大江宏氏の課題の輪郭はより鮮明となっていった。
そして、大江宏氏は、香川文化会館(1965年竣工)において、構造体の鉄筋コンクリートと化粧の木架構がともに独立した形で併存する混在併存をはじめて確立することができた。それは、「洋風」と「和風」をそれぞれ優劣なく、具体的表現として等価に扱っていた。
![丸亀高校記念館](../_src/80961758/img_20231123_122515173.jpg?v=1719364361645)
丸亀高校記念館
![香川県文化会館](../_src/80822513/dsc_0332.jpg?v=1719364361645)
香川県文化会館
香川県文化会館竣工時に添えられた論文に記載された「混在併存」にて、合理主義を基盤とする近代建築のあり方に疑問を提起し、近代建築が切り捨てたものの復権を図った。
大江宏氏がその後も一貫して志向したのは、伝統建築における様式や装飾。人間の心や身体といった近代主義によって不合理として切り捨てられてきた諸概念の復権であった。
香川県立丸亀高校武道館
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79194239/img_20231123_120518807.jpg?v=1719364361645)
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79194237/img_20231123_120638960.jpg?v=1719364361645)
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79194233/img_20231123_120954810_%281%29.jpg?v=1719364361645)
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79195881/img_20231123_122135400.jpg?v=1719364361645)
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79195934/img_20231123_122002287.jpg?v=1719364361645)
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79195936/img_20231123_121247040.jpg?v=1719364361645)
![柔道場](../_src/80822668/img_20231123_121432589.jpg?v=1719364361645)
柔道場
![剣道場](../_src/80822678/img_20231123_121311081.jpg?v=1719364361645)
剣道場
![弓道場](../_src/80822764/img_20231123_121722473.jpg?v=1719364361645)
弓道場
![香川県立丸亀高校武道館](../_src/79194263/img_20231123_121710130.jpg?v=1719364361645)
弓道場 的場
香川県文化会館で大江宏氏は当時の近代建築が忌避した伝統様式や装飾の再評価を伴った「混在併存」の原理を標榜し、具現化していった。
香川県と大江宏氏との交流
![香川県立丸亀高校](../_src/79194271/img_20240128_133207577_20240203180029920.jpg?v=1719364361645)
香川県立石田高等学校
大江宏氏は香川県文化会館を設計以降、香川県立丸亀高等学校、丸亀高校武道館、石田高等学校、旧三豊工業高等学校など教育関連施設を中心に取り組み、それらの施設は香川の文化の礎となった。また、東京の宿泊施設として香川県が運営していた東京讃岐会館にも携わるなど深く香川県民と関わっていった。
香川文化会館で混在併存を表現した大江宏氏は晩年に至るまで、理想とする多元的建築設計を一貫して志向し続けていた。その過程は建築作品を完成させるたびに自己の手法に疑いの目を向け、さらなる多元性の獲得を目指して発展させていく脱構築的模索の過程であった。和風・洋風の様式建築や近代主義建築それぞれに優劣無く関心を抱き、また自身の設計に取り込んでいった。大江宏氏はナショナリズムや教条主義に陥らないフラットな姿勢を保ち、自身のスタンスで建築を表現し続けた。そして、国立能楽堂という集大成を成し遂げることができたのである。