建築家村野藤吾は、古典様式からモダニズム、和風までさまざまな建築様式の手法を取り入れた独自の作風で、300件を超える個性豊かな建築を手掛けてきたが、庁舎建築は4件(大庄村、横浜市、尼崎市、宝塚市)にとどまっています。尼崎市庁舎は、横浜市庁舎と同時期につくられた貴重な村野建築の一つです。
尼崎市庁舎新築計画

尼崎市概略地図
1916年尼崎町と立花村の一部が合併し尼崎市が発足。発足当時の尼崎市中心部は、阪神尼崎駅の南側あたりであったが、1936年小田村、1942年大庄村、武庫村、立花村、1947年園田村を編入し、市域は阪急沿線に一気に拡大した。
1958年に市庁舎が手狭になったことより新庁舎建設特別委員会を発足し、市庁舎の予定地も含め検討を開始することなった。その結果、尼崎城跡にあった市庁舎を約2km北の橘公園に移転することとし、公園にあった池を埋め立てて新庁舎建築が決定された。
そして、設計を依頼されたのは村野藤吾氏であった。村野藤吾氏は大庄村役場を約25年前に手掛けていたこともあり、指名されたようだ。
建築家 村野藤吾
昭和の建築史の礎を築いた巨匠
折衷様式建築の修練を積み,近代的な表現技法と,伝統的な建築素材のもつ濃やかな情感を体験として探り当て、古典に近代感覚を自由に盛り込んだ作風と、熟達した実務派として高い評価を得た日本を代表する建築家。
尼崎市庁舎
市庁舎は、低層、高層、市議会の3棟から構成されているが、これは横浜市庁舎と同じ構成となっています。高層棟と低層棟を対比的に構成し、ピロティを設ける手法は、戦後民主主義を象徴する大規模市庁舎建築に用いられた典型的な設計手法であったが、低層棟に内部空間を持つ「市民広場」確保する点で村野藤吾氏の独創性が示されています。


尼崎市庁舎透視図

議場


オスカー・ニーマイヤーによるブラジル国会議事堂(1958年竣工)

平面図(北館と議事堂の一部は増築)
外壁は灰色のタイルで覆われ、いわゆる装飾を排除したモダニズム建築となっているが、随所に抽象的な形態を用いた凝ったデザインが施されています。

低層棟は、折れ壁・板状の梁や柱、バルコニーなどが組み合わされた繊細な立面となっており、低層棟から高層棟に白く塗装された柱や窓まわりなどがリズミカルに繰り返されるデザインが特徴となっています。


天窓



大庄村役場にもあるアヤトリ階段

エレベーター周りにはタイルが用いられています
市役所としての機能が求められるため、当初の市民ホールは住民の受付事務所に変更されており、やや雑多な感じにはなっているものの、随所に村野建築を感じることができます。

尼崎市庁舎基本情報
Related Sites
瀬戸内には1950年代から60年代にかけての丹下健三の初期の名建築が点在しています。初期の作品はル・コルビュジエの影響を色濃く受けながら、日本的要素を融合させた作品からブルータリズムへと転換していく過程を楽しむことができます。
高松市には1950年代から70年代前半にかけてのモダニズム建築が点在しています。香川県庁舎から始まった戦後復興はル・コルビュジエの影響を色濃く受けながらも、次第に地元の風土に根ざした建物へと転換していく過程を楽しむことができます。
同じル・コルビュジエ建築に憧憬を持った同世代である東京大学教授の丹下健三氏は神聖な造形美、モニュメンタルな建築を主体とした。一方の京都大学教授の増田友也氏は哲学的思考に基づく建築論を専門とし静かな存在感を主体としていた。鳴門市文化会館は増田友也氏による渾身の遺作となった。