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旧甲子園ホテルの魅力を探る|建築家 遠藤新

兵庫の名建築を楽しむ

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

遠藤新

1889年 福島県生まれ
1914年 東京帝国大学卒業
1915年 明治神宮造営局
1917年 F.Lライトと出会う
1917年 帝国ホテルの設計建設に従事
1922年 遠藤南建築創作所設立
1951年 逝去 享年62歳

帝国ホテル

F.L.ライトの設計による帝国ホテル

F.L.ライトを師に持つ遠藤新は、F.L.ライトの設計思想をよく理解した作品は、ヒューマンスケールな広がりのある空間で多くの人に親しまれています。
F.L.ライトとの出会いは、遠藤新が東京帝国大学工科学部建築学科在学中に知り合った林愛作が帝国ホテル新館計画時に、設計をF.L.ライトに依頼。その際、F.L.ライトから日本人スタッフを要望され、林愛作が遠藤新を紹介したことであった。
遠藤新は、1922年米国に帰国したF.L.ライトに代わり帝国ホテル新館や旧山邑家住宅を完成させました。

甲子園ホテル計画

1920年頃、兵庫県は天井川となっており、水害被害が大きい「枝川」「申川」について、武庫川本流を拡張する大規模な河川改修を行い、分流の「枝川」「申川」を廃川することとした。工事代金を確保するため廃川により不要となる周辺の土地74ヘクタールを売却することとした。
 
鉄道の敷設、運動場・遊園地の建設、住宅地の開発を考えていた阪神電鉄が県より取得し地域開発にのりだしました。開発を先導した阪神電鉄の技術長・三崎省三は、アメリカへの滞在経験をもとに武庫川や河口エリアをニューヨーク・ハドソン川やアッパー湾に見立てて、遊園地や球場、そして北側に住宅街という壮大な構想を描いた。さまざまな施設が建設され、1935年頃には同社の開発地は140ヘクタールを超えていました。

阪神電鉄の開発
1922年 枝川・申川の周辺土地の取得
1924年 甲子園大運動場(阪神甲子園球場)を建設
1925年 甲子園海水浴場開場
1926年 甲子園~甲子園浜に軌道を開業
1926年 甲子園庭球場(30面のコート)開場
1928年 甲子園~上甲子園に延伸
1929年 甲子園娯楽場(甲子園阪神パーク)開場
     動物園や当時日本最大の水族館も併設
1930年 甲子園ホテル(甲子園会館)オープン
1937年 甲子園水上競技場(観客1万人収容)開場
1937年 庭球場を甲子園国際庭球場に移転し開場
  (1万人収容のセンターコートと102面のコート)
 
甲子園周辺の開発状況
阪神電鉄では、沿線地域の多角的な開発を進める一方で、摩耶ケーブルや六甲ケーブルなどを整備し、六甲山のリゾート開発などにも積極的に投資をおこなうなど先進的な地域総合開発を進めていった。
 

関西には主要なホテルがなかったことより、阪神電鉄は大規模開発の一つとして本格的なホテルを計画。
ホテルの設計や運営を一任する支配人として白羽の矢がたったのは、帝国ホテルの支配人であった林愛作であった。
 
林愛作は、帝国ホテル支配人時代にF.L.ライトに帝国ホテル新館設計を依頼し建設をすすめたものの、度重なる工事遅延や予算超過もあって、建設途中で退職を余儀なくされた身であった。今回の甲子園ホテル計画で再起を賭けることとなった。
理想のホテル建設のため、建設地については、阪神電鉄が用意していた甲子園浜の建設地ではなく、景勝地である武庫川畔の土地を新に買い足しホテル用地とするなど拘りをもって取り組みました。
そして設計を依頼したのは、F.Lライトの弟子として帝国ホテル新館の建築設計に最後まで携わった遠藤新であった。

旧甲子園ホテル特徴

F.L.ライト設計の帝国ホテル新館の現場で、工事遅延や予算超過などの苦楽をともにした林愛作と遠藤新が、新たな理想のホテルづくりに挑戦したのが、このプロジェクトであった。

計画・設計などは、櫻正宗の別荘(山邑家住宅)において、毎日二人で寝食を忘れ設計や建設の打ち合わせしていたそうです。

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
格調高いホテルとして建てられており、けっして安くない材料を豊富に使い、入念に考え抜かれた装飾、立体的に展開される平面構成に職人の細やかな手仕事の集積が一体となって、優美でしかも重厚なものとなっています。ライト式建築の真髄とも言えます。
旧甲子園ホテル

林愛作は、日本の旅館について、サービス面は優れているが、戸締まりが不十分であったり、隣室の音が筒抜けなど、プライベート的な設備が大きく劣ると考えていた。そこで、甲子園ホテルでは、西洋方式の施設に日本のサービスを加えたホテルとすることで計画を練った。
遠藤新は、この考えを基に設計をおこない、ホテルの部屋に八畳の和室と十畳の洋室をあわせた日本初の和室のあるスイートルームをつくった。

建物外観

建物中央部は低く抑えられ、張り出した軒によって水平線が強調されています。それは、鳥が大きく翼を広げたような外観、和でも洋でもない、千変万化する重厚でエキゾチックな意匠となっています。
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

七重の塔に見える塔屋

師匠のF.L.ライト譲りで、垂直と水平の2軸を強調した構図とテラコッタで覆う装飾となっていますが、緑釉の瓦屋根、左右ウイングの伸びやかな構成、日本らしい吉祥文様などを取り込んでいます。

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
建物は立体が複雑に組み合わされ、空間を舞っているような美しさがあります。F.L.ライト設計の特徴である空に大きく突き出た庇が随所に見られます。
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

波模様と4個組み合わせた文様タイル

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

緑釉の瓦屋根

屋根には「打ち出の小槌」と「滴る滴」の装飾がデザインされています。関西人の商売繁盛(お金がどんどん沸いてどんどん滴り落ちてくる)をデザイン化しています。
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

自然を意識した有機的建築を表現

ホテル内部

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

入口はモダンな回転扉

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

東西2つのホールを結ぶ廊下

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
建物1階中央部につくられたレセプションルーム

バンケットホール

建築家遠藤新による旧甲子園ホテルバンケットホール
ホールは、雪見障子を模したような市松格子天井、欄間に似た造作とアールデコの和洋折衷となっています。ホールの中にも、ホテルの象徴的モチーフである「打出の小槌」を幸福のシンボルとして使い、ホテルの賓客を楽しませました。
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

2階ブリッジにはオーケストラが入るスペースがあります。山田耕筰の指揮によるオーケストラで舞踏会が開かれたり、阪神タイガース創立の翌年、チーム激励会が開催され、応援歌「六甲おろし」が初めて披露されるなど、皇室・閣僚をはじめ文化人や海外からの要人達の社交場として使われました。

噴水のある小階段

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

打出の小槌文様のある小階段。小槌だけでなく、小槌から弾き出された水玉、それを受ける水鉢は優美なオブジェとなっております。対面するハイサイドライトからの自然光は、冬至の日に光が的確に泉に落ちる設計となっています。

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

1階の酒場の床タイルは、泰山製陶所で釉薬開発のために作られたテストピースの泰山タイルが使われています。
泰山タイルは、池田泰山が京都九条に開いた泰山製陶所によって焼かれた装飾タイル。大正から昭和初期にかけて一世風靡しました。その類まれなる意匠性によって、当時の著名な建築家の多くが作品に取り入れました。
大阪の綿業会館ではタイルタペストリーとして5種類のタイル約1,000枚が渡辺節自らの手で仕上げられています。


その後の甲子園ホテル

林愛作が再起を図った旧甲子園ホテルは、「東の帝国ホテル」「西の甲子園ホテル」と言われる名門ホテルとしての高い評価を得たが、ホテルオープンの翌年には経営上の問題で林愛作は支配人を辞任しています。戦前、林愛作は香港、遠藤新は満州で活動していたが、戦後は二人とも厳しい環境に置かれていたそうです。F.L.ライトは二人の逼迫した状況を知り、マッカーサーを通じて手紙と250ドルずつの小切手を贈っています。

建築家遠藤新による旧甲子園ホテル

ホテルは、1944年に太平洋戦争の戦火拡大により、わずか14年で栄華の幕を閉じ、海軍病院となりました。終戦後米軍の将校宿舎に転用され、1957年大蔵省管理となるも、廃墟のまま放置されていました。この建物を保存復活させたいと尽力したのが武庫川学院の創設者公江喜市郎であった。国から原型を変えないこと、敷地の買い取りと整備、教育施設としての使用を条件として譲り受けました。その後大規模な修復を行い、現在は甲子園会館として武庫川女子大学建築学部のキャンパスとして大切に利用されています。

旧甲子園ホテルの概要

所在地 :兵庫県西宮市戸崎町1-13
電 話 :0798-67-0079
見学受付:専用ダイヤル 0798-67-0290 
予約電話受付時間は月曜日~土曜日の10時~16時 
開館時間:甲子園会館見学カレンダーを参考
駐車場 :なし
建築家遠藤新による旧甲子園ホテル
 

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