五色台山の家の魅力を探る

香川の名建築|建築家 浅田孝

五色台山の家

五色台山の家(現:五色台少年自然センター)は、丹下研究室に在籍していた浅田孝が企画した五色台開発計画に基づきつくられた集団宿泊施設。香川県民にはなじみの深い中学生の集団宿泊学習「五色台学習」の場としての集団学習施設として現在も利用されている。浅田孝による教育や自然への考えを通じて五色台山の家の魅力についてみていきます。

 
子供の遊具オクテトラ

イサム・ノグチから寄贈された「オクテトラ」

 
イサム・ノグチ氏とは広島平和記念大橋の欄干の設計から交流が始まり、横浜の「こどもの国」で協働している。浅田孝氏は牟礼町のイサム氏のアトリエであるイサム家にしばしば通っていた。

浅田孝経歴

昭和基地

南極探検隊昭和基地


 
横浜「こどもの国」皇太子記念館

横浜「こどもの国」皇太子記念館


 
坂出人口土地

坂出人口土地

 
浅田家は牟礼町の庄屋であり、高松藩漢方医の家柄であった。
父は勤務医であったため、松山にて勤務していた。
1921年 浅田孝太郎の長男として松山市にて生まれる
1943年 東京帝国大学工学部建築学科卒業
          卒業後海軍に徴兵され呉基地に配属
1945年 東京大学大学院に進学し岸田日出刀教授の下で学ぶ
1951年 東京大学大学院研究生を修了し、丹下研究室の創設に携わる
1952年 広島平和記念公園の設計監理
1957年 南極探検隊昭和基地をデザイン
1958年 香川県庁舎の設計監理
1960年 「世界デザイン会議」の事務局長を務める
    若手建築家を組織して「メタボリズム」を世界に発信
    「こどもの国建設推進委員会」委員となる
1961年 地域開発、環境問題の調査研究を行う㈱環境開発センターを設立
1964年 川添登らと日本万国博覧会のマスタープランに携わる
1967年 日本都市計画学会より「坂出市人工土地計画の実施」に対し石川賞を受賞
1970年 東京都の参与に就任(1973年まで)
1972年 沖縄海洋博覧会「事業企画」「会場計画」の委員に就任
1979年 ㈱環境開発センターを閉鎖
1987年 トヨタ財団の専務理事就任
1990年 逝去享年69
 
「構造と力」などの著者浅田彰は浅田孝の甥

香川での実践

丹下健三氏に香川県庁舎の設計を依頼しに東京大学へ赴いた金子香川県知事と、廊下で出会ったことがきっかけであった。
当時の浅田孝氏は、大学院を修了し、丹下研究室の番頭として広島平和記念公園や図書印刷原町工場の実務設計を手伝っていた。そして、同じ頃に、岸田日出刀教授の命で厚生省国立公園部財団法人公園協会の嘱託技師として、自然公園の政策のもとで、施設基準の検討を行っていた。浅田孝氏は多忙であったため、香川県庁舎の実施設計の頃には、丹下研究室との関わりは少なくなっていたが、金子知事は浅田孝氏のことを気に入り、香川県のデザイン事業について常に意見を聞くようになっていた。
 

浅田孝の「環境開発」

浅田孝氏は、環境開発センターを設立し、日本初の都市プランナーとして活動した。特に、都市の中で人々が生きがいを得るための手段として、レクリエーショに注目した。
環境開発センター設立の年にまとめられた香川県観光総合開発計画を皮切りに、浅田孝氏は香川をくまなく歩き、あるべき環境開発の形を企画・立案した。五色台開発計画(1962年)、新高松空港周辺地域開発計画(1971年)、瀬戸大橋関連の地域開発計画(1970~79年)、四国横断自動車道のルート決定調査(1973年)などに携わってきた。

五色台教育と環境教育

浅田孝氏が「環境」と呼称したものが実践されたのが五色台の開発計画であった。金子知事の依頼で野外活動を子供たちに推進するための開発保全の全体計画を試案していたが、そんな折り、牟礼・庵治・屋島といった古い観光地だけでなく、それまで手つかずであった五色台地区を開発して欲しいとの依頼があった。

 
五色台の概略図
 
浅田孝氏は、開発促進と自然保護という語義矛盾的な行為を同時に行う方法として「旧来の観光地のように大規模開発をしていく計画ではなく、自然を残す形で地域の人間の教育にも寄与する開かれた土地をつくるべき」と進言した。それは、浅田氏が人工的なものが自然を壊すことを恐れたからであった。

五色台開発マスタープラン

1962年に浅田孝氏により作成された。高松近郊にありながら自然が豊かに残り、瀬戸内海への眺望が優れた土地の特性を活かした、レクリエーショ・ゾーンの計画であった。自らがマスタープランを作成した「こどもの国」(1961年計画、横浜市)を超える試みとして、より野外活動に重きを置いた提案がなされた。
 
五色台を縦貫する五色台スカイラインを軸にして、ピクニックランド、児童公園、国民休暇村、観光ホテル、フルーツセンターなどが配置され、そこへのアクセスとしてロープウェイも計画された。
 
五色台開発に本格的に魂が入ったのは、田中和夫教育長という素晴らしい人がいたからである。田中教育長は、ただ単に施設の配置や建設をもってよしとせず。県下の子供たちが全員一度は数日間を山の上に寝泊まりし、五色台の全域にまたがって自然を学び身体を鍛えることにした。
 
それは金子知事の意向を受けて、これと真剣に取り組み、香川県の学童教育に次世代を担う心身を鍛え上げるため、スケールの大きい野外教育の土性骨を打ち立てようとするものであった。
 
浅田氏もスタッフもこれらの方針が出た後は、さらに熱のこもった議論を闘わした。それは、浅田氏自身も「こどもの国」での、来てもらう野外施設の限界という体験から、これを超えた取り組みができることに感銘したのであった。
 
こうした議論により、五色台教育と五色台山の家、国民宿舎(現:休暇村讃岐五色台)、自然科学館の三つの建築のマスタープランが生まれることとなった。
 

五色台マスタープランによる3つの施設の配置図

3つの施設の位置図

五色台の計画では、三つの建築の全体計画を行う中で、瀬戸内海や国際航路から見える「景観を壊さない国立公園」を維持すべきだとした。青峰に五色台山の家を自ら設計しつつ、国民宿舎担当の黒川紀章氏、自然科学館担当の山本忠司氏にも徹底させた。

五色台自然科学館と瀬戸内海歴史民俗資料館

五色台と大槌島、小槌島(香川県HPより)

五色台山の家(現:五色台少年自然センター)

五色台少年自然センター概略図

五色台少年自然センター概略図

五色台山の家は、アプローチから見え隠れする大屋根や内と外が融合した建築など、五色台開発の理念を具体化したもので、その後、五色台教育の場としても活用されたことは、地域計画と行政との類まれな取り組みとなった。

五色台山の家本館
 
屋根は上から見下されることも考慮して、勾配化をもたせた寄棟の大屋根としている。設計にあたり日本の古民家が参照されている。独特の赤紫に発色するコールテン鋼で葺かれている。屋根の上に突き出すダクトがコアの役割を果たし、それが鉄骨トラストによる小屋組を支えることで、柱のない内部空間が実現した。
いろりの家

いろりの家

野外活動棟

野外活動棟

浅田孝の子供たちへの想い

浅田孝氏は、子供たちの人間性や個性が子供達自身によって育まれることを望み、「現代社会の乾いたメカニズムの抑圧から、自然環境に包まれて過ごすことは人間性回復という点からは最も望ましい。」「自然の中での親子、友人同士の対話が、人間性の恢復にとって重要な手立てとなる。」などと述べており、子供たちを自然環境の中で過ごさせ、親や友人との対話を基に人間性が育まれる点が重要であると考えていた。
 
また、子供達にとって適した遊びの空間として「何でもない空地、変哲のない原っぱは、子供の遊び場の最高のもの」「自然環境は人間達のふる里として、最も重要な遊びの空間でもある」と述べ、子供達にとって自然環境の中で遊ぶことが大切であると考えていた。それらの想いを具体化させたのが五色台山の家であった。

五色台山の家芝生の広場

芝生の広場

五色台山の家つどいの広場からみた瀬戸内海

つどいの広場から見た瀬戸内海

五色台山の家は浅田孝氏の故郷の子供達への想いが詰まった施設であった。それらの想いは、現在も自然学習にて五色台の山の家を通じて、香川の子供達へ受け継がれていたのである。


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