香川の名建築 日建設計工務 薬袋公明

百十四銀行本店ビル

百十四銀行本店ビルは1966年に竣工。新たな本店ビルは西日本で最も高いビルであった。当初から周辺環境や景観に配慮し、セットバックした高層棟と、その周囲を囲むピロティをもつ低層棟は香川県庁舎が示した都市との関わり方に通じるものであった。その百十四銀行の魅力についてみてみます。

 

百十四銀行

銀行名の由来

1872(明治5)年に銀行制度が採用され、国立銀行条例が公布され、1872年~1879年の間に153の国立銀行が設立された。それらの銀行は、当局により設立出願の許可順に付された番号が命名された。
最初に出願許可されたのは東京の第一国立銀行で、百十四銀行は114番目に出願許可され、第百十四国立銀行として設立されました。その後、合併などを経て現在の「百十四銀行」の商号となっています。
 

百十四銀行の旧本店

大正15年築の旧本店(現:高松支店)

本店の移転新設

百十四銀行は、香川県高松市に本店を置き、香川県内を中心に営業展開していましたが、高度成長期の1960年代には四国、岡山の主要都市をはじめ、東京、大阪などの都市部への出店を積極的に進め業容拡大をはかっていった。
 

1960年には東京支店が開設され、事業基盤の拡大から本店の移転計画が開始された。移転先は、本店機能の拡充をはかるため、高松市の経済・司法・行政の中心となっているメインストリートである中央通り沿いで、ビルの高さは当時では西日本一の高さとする計画となった。

日建設計工務(現:日建設計)

沿革

1900年 住友本店臨時建築部として設置
1933年 住友合資会社より独立して、長谷部・竹腰建築事務所を創立
1945年 住友の商事部門を設け日本建設産業㈱を発足
1950年 商事部門を分離し日建設計工務株式会社を設立
1970年 株式会社日建設計と改称
 

薬袋公明(1926~2007年)

1951年 早稲田大学工学部建築学科卒業後日建設計工務に入社
 
薬袋公明(みたいきみあき)氏は、1956年には中心メンバーとして広島県庁舎を手掛けるなど、百十四銀行の本店計画時にはすでに日建設計工務大阪本社の若手リーダーとなっていた。
また、広島県庁舎ではモダニズム建築を庁舎に取り組み、戦後の庁舎建築の第一人者になっていた。

薬袋公明を取り巻く環境

薬袋公明氏がてがけた広島県庁舎(1956年竣工)は、機能的で合理性のあるモダニズム建築として評価されたが、前年に丹下健三氏が広島につくった平和記念資料館は、ヒューマンスケールを越えた都市スケールに合致させたものとなっており、大きなインパクトを与えていた。
 
その後、丹下健三氏は香川県庁舎(1958年竣工)でモダニズム建築と和風を融合させたデザインや都市スケールのピロティなどを用い、民主主義を象徴する庁舎をつくっていた。

広島県庁舎

広島県庁舎(日建設計工務)

平和記念館

平和記念館(丹下健三)

日建設計工務には薬袋公明氏ともう一人の若きリーダーがいた。それは、林昌二氏(1928‐2011年)であった。日建設計工務を躍進させる原動力となった、いわゆる西の薬袋と東の林であった。
 
林昌二氏は、1953年東京工業大学を卒業後日建設計工務に入社。
成長著しい東京を活躍の舞台に、新しい技術を積極的に取り込み、この時代の日本を代表する新しい建築を生み出していった。
 
林昌二による三愛ドリームセンター(1962年竣工)は、銀座四丁目の交差点に面する円筒形の商業ビルとして、銀座のランドマークとなっていた。
 

薬袋公明氏の手掛けた百十四銀行本店ビルは当時西日本一の高さを計画していたが、林昌二氏が同時期に手掛けたパレスサイドビル(1966年竣工)は、オフィスや商業施設と大規模新聞印刷工場を複合させたビルで、こちらも当時としては画期的な規模となる延床面積12万㎡の建物であった。
 
薬袋公明氏にとって百十四銀行本店ビルの成否は、社内外での評価に左右する重要案件であった。

三愛ドリームセンター

三愛ドリームセンター(現存せず)

パレスサイドビル

パレスサイドビル


百十四銀行本店ビル

建物外観デザイン

この百十四銀行本店ビルは、公道を跨いで水平に延びる低層部と、そこから分節された開口のない高層部のプロポーションが俊逸なものとなっている。また、「都市の大きなスケール」と「人間的なスケール」に、それぞれきめ細やかに対応した、街に生きる建築となっていた。
 

新居浜支店(1961年竣工)は日建設計工務がてがけているが、本店建設の試験店舗としてつくられている。店舗のファサードやピロティの四角い柱などは似ており、店舗としては縄文的な力強さを感じることができる。
 
百十四銀行本店建設のためのモデル店舗となった百十四銀行新居浜支店

百十四銀行新居浜支店

 

なお、新居浜は住友の別子銅山があった地でもあり、日建設計工務とのつながりの強い地域でもあった。
 
低層部と高層部に分かれ、高層部が低層部から少し浮き上がった構造は、NYにモダニズム到来と言われたリーバ・ハウス(1952年竣工:SOMのゴードン・バンシャフト)やデンマーク初の高層ビルSASロイヤルホテル(1956年竣工:アルネ・ヤコブセン)などに用いられている。

レバ‐ハウス

リーバ・ハウス

SASロイヤルホテル

SASロイヤルホテル

百十四銀行本店ビル
 
高層・低層の構造はリーバ・ハウスなどと似ているが、正面の鉄筋コンクリート柱や建物の東西につくられた日本初の緑青仕上げのブロンズ板で覆われた壁面は、南北のカーテンウォールと対比され、力強く独創的な建物となっている。

香川県庁舎との対比

中四国最大都市広島でのモダニズム建築の戦いが、海を挟んだ高松で再戦となったのは、香川のモダニズム建築が熱く盛り上がっていた地域であったことでもある。この百十四銀行本店ビルと香川県庁舎を対比してみると、官庁と民間の差はあるものの、ともに人々に愛され、親しみを持てる場所としての位置づけであり、ピロティの扱い、前面道路の関係、低層と高層の構成など、香川県庁舎といくつもの対比を見ることができます。

百十四銀行本店ビル(竣工時の
竣工時の香川県庁舎

百十四銀行本店ビルの特徴

百十四銀行本店ビルの最大の特徴は、銅のサビである緑青 で仕上げられた大量のブロンズ板が貼り付けられている壁面。1.5mmのブロンズ板を乱張りし、表面を緑青仕上げとしているため、古くなっていく風合いが美しいというコンセプトになっています。
 
建築家薬袋公明による百十四銀行本店ビル
 
百十四銀行本店ビル

本館と別館を結ぶ通路。手前は銀行の会館で統一感がある。

 
3階部分のピロティ下にプレキャストルーバーの2階が入り込んでいます。北棟と南棟の間の公道の上にある緑青仕上げのブロンズでできた空中廊下は印象的です。

百十四銀行本店ビルの床と壁は彫刻家の流政之氏のデザインしています。床は、「さぬき波ばやし」と名付けられた、さざ波のイメージしてつくられたモザイク石床が敷かれており、地域を意識した内装となっています。
 
12種類のツタでつつまれた駐車場の壁は、こちらも流氏の監修で「草壁画」と名付けられています。この草壁面には「時とともに育ち、いろどりを変え、水と太陽によって自然に色や形を作り続けていく」というメッセージが込められています。

百十四銀行ロビー

百十四銀行本店ビルロビー

百十四銀行駐車場壁面

百十四銀行駐車場壁面「草壁画」

百十四銀行本店ビル
 
常にメンテナンスを実施しており(1999年に耐震補強、2011年に南北面のブロンズサッシを保全しながらダブルスキン化)、美しく保たれています。百十四ビルは 「25年以上の長きにわたり、建築の存在価値を発揮し、美しく維持され、地域社会に貢献してきた建築」を顕彰するJIA25年賞を受賞しています。
 
百十四銀行本店ビル

 
当時の建築家たちのモダニズム建築に対する熱い想いと情熱を高松で感じることができます。
なお、1967年1月に毎日芸術賞において、金子香川県知事を中心とする建築関係者一同による「香川県の建築および都市開発のデザイン・ポリシー」に対して特別賞が建築分野で初めて受賞となっています。この授賞式後に丹下健三氏を中心としたメンバーで開かれた料亭・胡蝶での祝宴には、丹下健三、黒川紀章、神谷宏治、大江宏、大髙正人、流政之などの中心に百十四銀行の綾田整治頭取がいたことは、当時の香川の経済界もモダニズム建築への思いが非常に強かったことを示していた。


薬袋公明による同時代の銀行

薬袋公明氏は百十四銀行本店ビル以外に阿波銀行本店(徳島市1966年)、殖産銀行本店(現きらやか銀行桜町支店:山形市1968年)など、多数の銀行建築を手掛けた。その後、大阪ビジネスパークなどの都市開発プロジェクトにも携わっていき、日建設計の代表取締役を歴任した。

日建設計工務の薬袋公明が設計した阿波銀行

阿波銀行本店

日建設計工務の薬袋公明が設計した旧殖産銀行

旧殖産銀行本店



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