広島市現代美術館は、1980年に広島市が策定した「比治山芸術公園基本計画」に基づき、比治山全体を文化の中心とする構想の下、建築家黒川紀章により設計された。1989年5月に開館した公立では全国初の現代美術館の魅力をみていきます。
建築家黒川紀章
黒川紀章氏は、1934年愛知県海部郡蟹江町に生まれ、京都大学工学部建築学科に進学し西山夘三教授に師事。東京大学大学院に進み丹下健三氏の研究室にて学び、在学中に設計事務所を立ち上げた。黒川紀章氏は、1960年代に浅田孝、大髙正人、槇文彦、菊竹清訓、栗津潔、栄久庵憲司、川添登などとメタボリズムを提唱。黒川氏により設計された中銀カプセルタワー(1972年竣工)はメタボリズムを具体化した代表作となった。
黒川紀章氏は、「共生」という言葉を使い、西欧社会近代化のための基礎となる合理主義的二元論を克服していった。唯識思想の研究・共生の思想の提唱を50年間一貫して進めてきた思想家であり、建築家であった。
中銀カプセルタワー(現存せず)
美術館建設の理念
「広島市現代美術館基本計画」において以下の4点
- 現代を見つめ、未来への展望をきりひらく美術館
- 国際的視野を持った美術館
- 新しい文化創造の核になる美術館
- 都市の活性化につながる美術館
黒川紀章によるコンセプト
- 部分と全体の共生
- 非対称性
- 異質文化の共生
3つの共生の思想のコンセプトによって設計された。
対立・矛盾する二者または複数の要素の間に中間領域、共有空間、緩衝地帯を置くことによって、時間をかけて共生を実現させていく。
そもそも、日本文化には中間領域の発想がある「縁側」「間」「曖昧性」がそれである。道空間(路地)も共有空間として独特なもので、公と私とを二元的に明確に分ける西欧の道路や広場と異なるものであった。それらを表現したのが広島市現代美術館であった。
20世紀を支配した西洋の二元論から派生する考え方を否定し、21世紀に向け日本の伝統的な思考をもとにした「共生の発想」を提唱したのであった。
さまざまな素材、形、記号を組み合わせることで、歴史と未来、西洋と日本、自然と人間の共生が象徴的に示されています。
広島市現代美術館の特徴
自然の景観との調和
比治山のイメージから、山の斜面の樹木を最大限に保存することを考え、建物の高さと周囲の樹木の調和に配慮。階層を地上だけでなく地下へ重ねることで建物の総床面積の60%以上を地下に埋めた低い建物としています。
過去から未来
建物の素材は、地面から高くなるに従って、自然石、磨石、タイル、アルミと現代的な素材へと軽やかにかわっています。これは複数の素材を組み合わせることで、現代美術館としての先駆性を表現しています。過去から未来への文明の発展や時間の流れを表現している。
建物にはさまざまな素材が使われている
文化の融合
屋根は江戸の蔵をイメージさせる切妻屋根。建物中央には円形の広場があり、古代ヨーロッパを思わせる。円形広場にはそれを取り巻くように柱廊が配置され、それを媒介する形で建物両側に展示室が広がっています。
切妻屋根を取り入れたポスト・モダニズムの建物
美術館の造形
建物の高さが比治山の稜線を超えないようになっており、山麓からは建物が全く見えない。また、半地下の構造となっているため、高さを抑えるとともに、外観からは想像がつかないくらい広くなっている。
日本伝統の蔵をイメージした建物に、現代の産業をイメージしたようなクレーンを設置するなど異質で非対称なものが共生されている。
美術館と彫刻の配置
黒川紀章氏が設計した美術館では、彫刻の配置も特徴的で、建物と一体になっていることも多い。広島市現代美術館では井上武吉氏とコラボしており、美術館の動線と一体になった彫刻を設置しています。これも一種の共生の思想であった。
階段モニュメント
屋外階段モニュメント
エントランスの風除室
アプローチプラザの丸柱
黒川紀章による共生の思想
東洋思想を元に、西洋がリードしてモダニズムを生んだ流れを批判して、それを超えられるのがポストモダンであった。西欧社会近代化のための基礎となる合理主義的二元論は、「分離したり」「分類したり」「比較したり」「評価したり」する事であった。そのため二元論は、本質からどんどん離れていった。黒川紀章氏は、二元論から派生する考え方を否定し、21世紀に向け日本の伝統的な思考をもとにして克服することが「共生の思想」であった。
広島市現代美術館は、古代ヨーロッパの広場を思わせるアプローチプラザ、日本の蔵を思わせる三角屋根など、さまざまな共生を特徴としたポストモダン建築として、現代美術にふさわしい美術館となっていた。