旧制広島高等学校在学中にル・コルビュジエのソヴィエトパレス計画を知り感動した丹下健三氏は建築家に進む道を決意。そのソヴィエトパレス計画は丹下健三氏の平和記念公園と原爆資料館設計の源となり、被爆者への鎮魂と世界平和への決意を空間として表現し、建築家丹下健三氏の出発点となった。
設計コンペ
広島市は旧中島地区を記念公園として整備することを決め、昭和24(1949)年5月に募集を開始。
募集要項を下記に原文そのまま記載
廣島市平和記念公園及ビ記念館
設計懸賞募集要項
應募期間 昭和 24 年 5 月 20 日→7 月 20 日
發表期間 昭和 24 年 8 月 6 日
主催 廣島市
後援 建設省. 廣島縣中國新聞社. 毎日新聞社.朝日新聞社. 夕刊ひろしま社.共同通信社. 公園緑地協會
コンペの結果
首席:丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国の四氏の案
次席:山下壽郎
三席:荒井龍三
の結果となった。
一等案についての説明
同設計によると公園予定地は公園面積37000千坪に対し、東から西に抜にて広島市自慢の百メートル道路を正面として南向きに平和記念館を配置、同館は廊下によって本館と集合場の二建物がつながれ、公園の中央には平和記念碑ともいうべきアーチの塔をつくり随所に緑樹が配されており、百メートル道路に観光客が立てば記念館の廊下ーアーチの塔をすかしてアトムの残骸旧産業奨励会館のドームを見通し得るようになっている。
審査員岸田日出刀の講評
この軸の正しいとり方は周囲の都市計画諸要素との関連において決定されるべきものであり、この点本案は巧みな解決案を提示しているー(略)ー川越しに遠く元産業奨励館の絵画的な残骸を望むヴィスタの効果をねらった本案の計画は、なかなか非凡である
設計案の審査
審査の最終段階で16作品に絞られた1回目の投票で丹下案は5位通過で、1位は山下案であった。その後に上位8作品を対象とした2回目の投票では逆転して1位となった。
山下案は元安川の川岸そばに記念塔を建てるのが特徴。荒井案は記念館を平和大通りから奥に配置する案となっていた。
なお、山下壽郎氏はNHK東京放送会館(1938年竣工)の設計や後に国内初の超高層ビルである霞が関ビルの設計を手掛けるなどの実力者であった。
現代ではアーバンデザインの際にはアイストップを探し、そこに向けた景観軸を作り、必要な建築や動線を配することは普通であるが、この時、原爆ドームをアイストップにおいた考えは丹下健三氏以外いなかった。
元安川の川岸から見た原爆ドーム
本コンペに参加した建築家菊竹清訓氏は丹下案を見た時の感想を「まったく創造を超えたものでした。まさかゲートのようなものだとはね。ただゲートのようにすることで、奥に広がる公園を全部活かせる。前と後ろを連続させながら視線はそこに集中する。一方、私の案は敷地の真ん中に置いちゃったから、全く敷地の使い道がなくなっちゃった。単体の建築になって、これには本当に反省させられた」と語っていた。そして、菊竹清訓氏は広島のコンペでものの見事にやられたと感じ悔しくて、心を入れ替えるべく丸坊主にしたという逸話も残っている。
菊竹清訓氏の発言からもあるように、当時は公園の中央に施設を設置する山下案的な考え方が主流であったのではないか。また、丹下健三氏は東京大学助教授グループであったが、当時36歳で実績はほとんどなかった。一方の山下壽郎氏は61歳でこれまでに多数の実績もあったことより、大規模プロジェクトへの安心感もあり、審査員からは山下案が人気があったのではないかとも思われる。
最終的に丹下案となったのには審査員であった岸田日出刀氏の存在が影響していた。午前中の審査の後、昼休みに審査側の議長であった岸田日出刀氏が審査員に対し丹下案の良さを説明するなどして推した。午後からの決戦投票で丹下案が逆転し当選したが、その差はわずか数票差の僅差であった。
岸田日出刀 (1899‐1966)
1899年鳥取県東伯郡出身
1922年東京帝国大学工学部建築学科卒業
1925年東京帝国大学工学部助教授就任
同年1年間の海外視察
1929年学位論文「欧州近代建築史論」を発表
同年東京帝国大学教授就任
1947年日本建築学会会長(2年間務める)
1959年東京大学を定年退職
主な作品
東京帝国大学 安田講堂(1925年)
倉吉市役所(1956年:丹下健三との共作)
高知県庁舎(1962年)
主な著書
「過去の構成」
「現代の構成」
岸田日出刀氏は戦争中の日本に建築のモダニズムを最初に持ち込んだ戦中戦後の近代建築をリードした人物。1925(大正14)年海外視察した際に、ル・コルビュジエの本とライカを持ち帰り、若手建築家に大きな影響を与えた。
ル・コルビュジエの本「今日の装飾芸術」を卒論の参考にさせるため前川國男氏に渡したが、前川國男氏はその本に記されていたル・コルビュジエの若き建築への想いに感動。それを卒論で訳し、卒業の翌日にシベリア鉄道に乗ってパリに旅立った。
1929(昭和4)年に「過去の構成」を出版。これは建築のディテールを岸田日出刀氏がライカで撮った建築写真集。純粋に古い建築だけを扱ったものであるが、瓦や欄干の細かなディテールまでを撮り、それまで様式や形式で見ていたものをカメラで切る取ることで、はじめて構成という視線を出した。
その切り取り方がモダニズムを介しての解釈を生み出し、日本の伝統建築をモダニズムの眼から捉えた。
この日本の古い建築の取り出し方が、丹下健三氏をはじめとする日本の建築デザイン論の始まりとなった。
岸田日出刀氏は「直線」を肯定的に評価。神社建築は日本の純潔を維持し、単色性、開放性、無装飾、直線的なもので、それはモダニズムの美学に直結するとの考えを持っていた。日本建築では桂離宮、京都御所、伊勢神宮を高く評価していた。
桂離宮
京都御所
審査員岸田日出刀氏は丹下案の軸線をもつ広場にル・コルビュジエの都市計画をダブらせ、丹下案の建物にモダニズムと桂離宮など日本の伝統建築の融合を見たのではないか。そして、この丹下案こそが敗戦直後の日本が現代建築界で世界トップクラスへ押し上げることができる唯一の作品と確信し、実現すべく強い使命感を持ったのではないか。
丹下健三グループの創作力と岸田日出刀氏の審査能力(都市計画の理解等)の高さがあったからこそ、世界的な建築を誕生させることができたのである。
丹下健三の挑戦
丹下健三氏は旧制広島高等学校(現広島大学)でル・コルビュジエのソヴィエトパレス計画を講堂に置かれていた雑誌で知り感動し、建築の道に進むことを決めた。
1932年にソ連で行われたソヴィエト宮殿のコンペ。
ル・コルビュジエはこのコンペに参加し、ソヴィエト・パレス計画を提出。それはモスクワ川からの動線の両側に、大劇場と多目的ホールを対向させたダイナミックな平面計画。
大劇場の屋根をワイヤーで吊る放物線アーチが力強い。鋼鉄の大梁といった構造体を表現して露出し強調したところに特徴があった。ル・コルビュジエはこの案以上の構造表現作品を以降つくることはなかった。
なお、このコンペでは国外からの案についてはすべて一次審査で落選となっており、ル・コルビュジエの案が実現することはなかったが、後世の建築家に多くの影響を与えた。
丹下健三氏は後年、この作品の印象を「装飾的なものを一切取り払いながらも、凛とした美しさを持つ設計に、私はすっかりほれ込んでしまった」と記しており、その表現は丹下健三氏の作風に大きな影響を与えた。
東京大学在学中はル・コルビュジエの作品集を常に持ち歩いており、丹下健三氏の卒業設計では「ソヴィエト・パレス」と同じような台形の空間が表れています。
卒業設計の敷地は日比谷公園、手前は帝国ホテルの敷地。「2つのボリューム」があって「それに直行する形でアプローチ等線」があり、ル・コルビュジエよりはっきり意図的に計画している。
卒業設計「CHATEAU D`ART 芸術の館」(1938年)
丹下健三氏の卒業したころの日本は戦時体制に入っており、設計の仕事はほとんどなかった。仕方なく、戦時下の大学院でイタリアの歴史的な広場の研究と日本の伝統的建築の研究と実現を前提としない架空のコンペに力をそそいでいた。
そして、その架空のコンペの一つ1942年日本建築学会によって開催された「大東亜建設記念営造計画コンペ」に応募し1等入選をはたした。
大東亜記念営造案
丹下案では皇居から富士山に向かって「大東亜道路」と「大東亜鉄道」を走らせ富士山東麓を「忠霊神域」にするという計画であった。それは、強い象徴的存在へと視線が向かうモニュメンタルな空間構成を壮大な都市計画レベルでつくり上げる計画であった。それはヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと横山大観風の日本画を想わせる透視図によるものであった。
忠霊神域には神社に想定されているものを中心に配置し、台形を対面させた平面計画。そして様々な施設を三角形状に配置したシンメトリカルなものとなっています。直交する軸線の先には富士山があり、鉄筋コンクリート造の寝殿造りで神殿を描いていた。
丹下案は伝統の伊勢神宮の形をル・コルビュジエの造形で洗ったような珍しい案となっていた。
このコンペは本来建築学会の若手を対象とした懸賞行事であり、実施することはないコンペであったが、丹下健三氏の案は審査員の一人であった岸田日出刀氏だけではなく、人々にインパクトを与えるものとなった。
1945年8月6日
終戦間際、父の訃報を受けた丹下健三氏は今治の実家に向かった。その道中で青春時代を過ごした広島全滅の報を聞く、たどり着いた今治は広島の原爆投下と同じ8月6日に空襲を受けて壊滅されていた。そして、その空襲で母も亡くなっていた。丹下健三氏にとっても8月6日は特別の日となった。
戦災復興都市計画
1945年11月戦後復興事業推進のため戦災復興院を設立し空襲で破壊された都市の復興のために戦災復興都市計画を策定した。戦災復興院では典型的13都市について建築家・都市計画に委嘱して調査・計画・立案作業をおこなった。丹下健三氏は当初前橋市、伊勢崎市を担当となっていたが、広島の復興計画が戦災復興院で候補者がおらず俎上にのぼっているのを知り、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず志願した。
1946年夏に丹下スタッフは浅田孝、大谷幸夫、石川充と広島入りした。
広島を山陽工業地帯の中核都市として再生させるという展望を示し、そのための計画を策定。
土地利用計画などは概ね審議会で認められたものの、すでに計画していた幅員100mの道路の中心に位置する中島町三角地を官公庁街にし、これに向かって駅前から市街地を斜めに抜ける幹線道路を計画した案については中島町を公園とすることとし、幹線道路は認められなかった。
広島市平和記念公園及び平和資料館の丹下案
丹下案は原爆ドームと平和記念資料館とが明確に関連づけられて配置されている。都市計画的な視点で動線に加え、都市軸の視点から建造物や建築物を整え、構造物の配置や構造に意味を与えた。
平面上で二つの台形を組み合わせた鼓形の空間を創造している。そして、原爆ドームをアイストップとし、そこに向けた景観軸をつくっている。こうした設計は来場者に劇的な空間体験をさせる。原爆慰霊碑に向かう人が慰霊碑を遠くに感じながら進み、慰霊碑前にたどり着くと、原爆ドームが実際の距離より近くに見える。
この丹下案は学生のころに感動したル・コルビュジエのソヴィエトパレスが構想の源となり、戦時下の架空のコンペで策定した「大東亜記念営造」案が原型となっている。そして、柱と梁の直線の構成から生まれる平和記念資料館の美については岸田日出刀氏から学んだ日本建築の美とモダニズム建築をみごとに融合させている。
慰霊碑を中央に置き、平和記念資料館を平和大通りからのゲートとし、原爆ドームをアイストップとすることで公園全体を活かす構成はル・コルビュジエの都市計画から学んだものである。
終戦後の混乱期に行われたコンペにも拘わらず、完成度の高い丹下案ができたのは戦時下で仕事が見込めない中でも架空のコンペを通じて都市計画を常に表現してきた。また、地道に日本建築などを学び続けいていた。そして、残留放射能の影響も残る被災地広島の戦災復興都市計画に自ら志願し、現場の中島地区を知り尽くしたからこそ策定できたものであろう。
応募にあたり、丹下健三氏は「平和は訪れてくれるものではなく、闘い取らなければならないものである」と説明している。また、「私は原爆の悲惨さが分かってこそ平和は生まれると考えました。それでドームをシンボルに百メートル道路(平和大通り)から見渡せる設計にしたんです」と中国新聞のインタビューに答えている。
G7広島サミット(2023年)
丹下健三氏は戦後間もない混乱期であったにもかかわらず、将来世界の首脳が慰霊碑の前で世界平和を願う光景を想定して計画案を策定していたのである。そして、審査員であった岸田日出刀氏も丹下案の意図を理解していたからこそ、丹下案を実現させることができたのであった。
巨大なこの建築スケールにも重要な意味があった。
丹下健三氏は「人間の尺度を超えた社会的人間の尺度」にこだわり、ローマで見た「神々の尺度によって建てられた建築」に通ずるものをこの建物に採用した。当時、この都市を蘇らせるには「大建築こそ必要」と感じたという丹下健三氏の熱量が資料館の迫力から感じることができる。
Unité d'Habitation