鳴門市文化会館を手がけた増田友也は、京都大学の教授として哲学的思考に基づく建築論を専門としつつ、西日本を中心に24年間で61施設を手がけた。1971年に計画が始まり約10年の制作期間となった鳴門市文化会館は渾身の遺作となった。
建築家 増田友也
経歴
尾道市役所と公会堂(現存せず)
京都大学総合体育館
1914年 淡路島の三原郡八木村生まれ
1935年 京都帝国大学工学部建築科に入学
1935年 京都大学卒業後満州炭鉱工業会社に就職
1945年 終戦時にシベリア抑留
1950年 京都大学工学部建築科講師に着任。
増田研究室を主宰する。
1957年 設計活動を開始
1960年 尾道市役所竣工
1980年 鳴門市文化会館工事着工
1981年 増田友也氏逝去 享年66歳
1982年 鳴門市文化会館竣工
鳴門市役所庁舎を始めとする鳴門市や京都大学坂記念館など京都大学の施設を中心に西日本にて施設設計を手掛けた。
空間現象に着目した現象学的存在論に依拠する「建築論」を論じ、増田友也氏の研究成果は「建築論の京都学派」という学派を形成した。
端正なモダニズム建築を多数手がけた一方で、ハイデガーや道元などの思想を取り入れ、建築の根源を探求した哲学的建築論を構築した。
増田友也氏と鳴門市
1959(昭和34)年に就任した谷光次鳴門市長は京都大学法学部を卒業。鳴門市は国道11号線沿いの廃塩田跡を官庁街にする計画を立て、鳴門署や消防署などの建築を進めていた。1961年鳴門市民会館の建設にあたり谷市長は同じ京都大学のつながりから工学部の増田教授に依頼したとされる。その時が実質的な付き合いの始まりであったが、そこで2人は意気投合し、以降の主要な施設の設計を実施した。
鳴門市には増田建築が19施設存在するが、これは谷市長が7期28年間務めたことに加え競艇事業の収益を背景にした豊かな財政事情があった。
これらの施設はさながらル・コルビュジエの作品群があるインド北部のチャンディーガルであった。
鳴門市民会館(手前:現存せず)と鳴門市庁舎
鳴門市庁舎と共済会館
南側からの共済会館
ル・コルビュジエの影響
ル・コルビュジエによるキャピトル・コンプレックス
インドのチャンディーガルは果てしない平原であったものをル・コルビュジエが都市計画を策定。都市計画の中心となすキャピトル・コンプレックスには州議会、高等裁判所、合同庁舎など一連の行政機関を集約した。(手前は議会棟、奥は政庁舎)
ル・コルビュジエの白の時代から晩年の荒々しくそして有機的な作品のように増田友也氏も鳴門の地で様々な思考を凝らしてたどり着いた形が鳴門市文化会館であった。
鳴門市文化会館を中心とした複合施設
増田友也氏が撫養川(むや)沿いの塩田跡地に初めて踏み入れたのは1971年春であった。前田忠直氏を設計チーフに指名し同じ敷地に建てる勤労青少年ホーム(1975年竣工)や老人福祉センター(1977年)と合わせて文化会館の検討を始めた。第一次石油ショック(1973年)に伴う中断・縮小などを挟んで1980年2月まで実施設計が行われており、足かけ9年に渡ってスタディが重ねられ、スケッチや模型、図面の間で絶えず思索がめぐらされた。
鳴門市勤労青少年ホームと老人福祉センター
鳴門市勤労青少年ホームと老人福祉センター
勤労青少年ホームと老人福祉センターの外観はコンクリート打ち放しの造形と、ルーバーが特徴的となっている。市民文化会館との統一感をもった意匠となっている。
黄は太陽、青は空間、緑は自然、赤は生命を意味し、ル・コルビュジエはこの4色を「人生に必要不可欠な喜び」と呼んだ。
鳴門市文化会館の特徴
増田友也氏は1978年に京都大学を退官。80年4月に福山大学教授に着任したが、一週間の福山大学の講義を終えると必ず鳴門の工事現場に立ち寄り、そして京都に帰るという生活を送っていたが、その頻度は次第に少なくなっていった。それは自身の体調が悪くなっていったからである。それでも、増田友也氏は「これが私の最後の作品だ」と語り、この作品に凄まじい執念をみせ、工事が始まってもギリギリまで図面に修正を加えた。81年7月に見舞いに訪れた工事監理の責任者である河合恭一氏に対して寝たきりとなっていた増田氏は「ホールの壁の色も、やっと決めたよ」と言ってホール後方の内壁を金色に命じたのが最後の指示であった。
鳴門市文化会館の今後
空間現象に着目し、現象学的存在論に依拠する「建築論」を論じた増田友也氏は、「精神上の焦点とでもいえるようなもの」「市民のモニュメントとして、いつまでも新しく永遠なるもの」を目指してつくられた鳴門市の建築群。築後50年を超過し、耐震問題などもあり鳴門市役所等は建替えが進んでいる。遺作である鳴門市文化会館も耐震問題により休館となったが、地域住民の声もあり耐震補強工事を実施することで会館は維持されることが決定しており、会館が再開されることが待ち遠しい。