戦没学徒記念若人の広場(現若人の広場)は、鳴門海峡を見渡す海に囲まれた大見山こそ慰霊地としてふさわしいと、淡路島の最南端にある南淡町長が誘致。自然豊かな淡路島で建築家丹下健三によりつくられた、平和への想いが込められた戦没学徒記念若人の広場の魅力を探ってみました。
戦没学徒とは
「出陣学徒」とは、終戦末期の戦局悪化、兵力不足を受けて徴兵猶予を受けていた大学、高校等の文系科の学生を在学途中で兵力として動員され学園から戦地へと駆り出された学生たちのことであり、公式な数字はないものの、総数約13万人ともいわれている。
一方、「勤労動員学徒」とは、同じく戦争末期に深刻な労働力不足を補うために、中学生以上の生徒や学生を強制的に軍需工場などに動員された学生たちであり、ほとんど実態は知られていない。
文部省の「学制百年史」によれば、終戦を動員先の工場で迎えた学徒の総数は340万人で、空襲などで命を落とした学徒は判明しているだけでも1万人を超えていた。
戦没学徒記念若人の広場計画
1959年に動員学徒戦傷病者及び動員学徒戦没者遺族等に対し必要な援護を行い、もってその福祉を図ることを目的に「財団法人動員学徒援護会」が設立された。
設立当初の主な役員は、会長が大橋武夫氏(労働大臣や運輸大臣を歴任)、理事長が松野頼三氏(農林大臣や防衛庁長官を歴任)であった。その財団によって、勤労動員学徒を追悼するための施設計画がすすめられた。
建設へ向けた地道な活動を実質的に担ったのは、宮原周次という一人の勤労動員学徒であった。宮原氏は、戦時中に自らも軍需工場へ動員され、その際に受けた空襲で両手を失っていた。不自由な体にもかかわらず、この建物の資金を集めるために全国を行脚して歩いて回った。その後、援護会の事務局長に就任した。
設計の経緯と想い
1962年宮原周次氏は建築家丹下健三氏を訪問し依頼。戦後、ほとんど顧みられことのなかった軍需工場などに動員され、空襲などで亡くなった学生「動員学徒」に対する追悼施設建設への強い信念を持っていた宮原氏への考えに賛同した丹下健三氏は設計を受託し計画は具体的に進められた。
丹下健三氏は、高校時代を過ごした広島は原爆投下によって多くの学友と懐かしい町の全てを失い、その直後には実家のある今治の空襲で母親を亡くしているなど、空襲で亡くなった民間人に対する想いは強かった。広島記念平和公園に続く「平和をつくる工場」としての鎮魂施設として取組んだ。
戦没学徒記念若人の広場の特徴
高く積み上がった石積みの造形美が印象的な展示資料館と25mの記念塔を含めた公園施設として設計されている。
自然の景観に配慮された石積みは故郷にある今治城を意識したものとも言われている。
石垣の造形美は印象的であり、迫力も感じる。
今治城
広場の造形
公園は、尾根に沿って鼓型が向かい合う造形となっています。広島平和記念公園でも描かれている丹下健三氏のベースとなる型で構成されています。
この鼓型が最初に登場したのは、丹下健三氏が戦時下の大学院でイタリアの歴史的な広場の研究と日本の伝統的建築の研究と実現を前提としない架空のコンペに力をそそいでいた時であった。
架空のコンペの一つ1942年日本建築学会によって開催された「大東亜建設記念営造計画コンペ」に応募し1等入選をはたしたデザインでは鼓型となっていました。
大東亜記念営造案
学徒をイメージするペン先に模した高さ25mのHPシェル構成の記念塔には「若者よ天と地をつなぐ灯たれ」と刻まれており、「永遠の灯」が灯っています。
展示資料館は塹壕をモチーフにし、ヴォールトの天井は広い空間的な造形となっており、神聖な雰囲気を醸し出している。
施設竣工後から現在まで
設計者未公開
施設の目的は、学徒勤労動員たちが強制的に軍需工場などへ動員され、無念にも命を落とした若い学徒たちを追悼し、その生を記憶するための施設であることであり、丹下健三氏も推進責任者の宮原氏の「勤労動員学徒」に対する強い想いに賛同し、設計を受託していた。
しかしながら、慰霊計画が進められていくにつれ、「勤労動員学徒」を追悼する施設から範囲が拡大され、「出陣学徒」として戦場に駆り出されて戦死した学徒兵の遺品類も収蔵されていき「出陣学徒」と「勤労動員学徒」の両方の学生達を包含する慰霊施設となった。
そして、発注者の財団法人動員学徒援護会は、施設の募金委員長に大物政治家とするなど、政治的意味合いを強く持つ組織であったことが判明。
完成直前になって竣工式に自衛隊の艦艇や飛行機が来ることを知った丹下健三氏は、竣工式を欠席した上に自身の作品集に掲載しないことを決めます。
施設のその後
竣工当初は年間10万人近い来訪者があったものの、来館者は減少していき財政難に陥りながらも、ほそぼそと運営していたが、1995年に発生した阪神淡路大震災の損傷をきっかけに運営していた財団は破綻。施設は閉鎖され廃墟と化した。
2002年に出版された「丹下健三」の中で藤森照信氏が全容を紹介。2006年朝日新聞の「勝手に関西世界遺産」という新聞連載で木下直之氏が取り上げてから、広く知られるようになった。
施設は恒久平和を願う市民が憩える公園として南あわじ市に移管され2015年に「若人の広場公園」として再開された。建築家丹下健三氏による戦没学徒に対する想いを是非感じて下さい。
整備された若人の広場(南あわじ市HPより)
旧戦没学徒記念若人の広場(現:若人の広場公園)概要
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瀬戸内には1950年代から60年代にかけての丹下健三の初期の名建築が点在しています。初期の作品はル・コルビュジエの影響を色濃く受けながら、日本的要素を融合させた作品からブルータリズムへと転換していく過程を楽しむことができます。
同じル・コルビュジエ建築に憧憬を持った同世代である東京大学教授の丹下健三氏は神聖な造形美、モニュメンタルな建築を主体とした。一方の京都大学教授の増田友也氏は哲学的思考に基づく建築論を専門とし静かな存在感を主体としていた。鳴門市文化会館は増田友也氏による渾身の遺作となった。
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