豊島美術館は、瀬戸内の自然とアーティスト内藤礼の「母型/Matrix」水・水滴・泉をモチーフとした繊細な作品と建築家西沢立衛の建物が調和した空間体験美術館であった。構想から約7年を経てオープンとなった豊島美術館の魅力をみていきます。
建築家 西沢立衛
十和田市現代美術館
経歴
1966年 東京生まれ
1990年 横浜国立大学大学院修士課程修了
妹島和世建設設計事務所入所
1995年 妹島和世とSANNA設立
1997年 西沢立衛建築設計事務所設立
2001年 横浜国立大学大学院卒業
2008年 十和田市現代美術館竣工
2010年 豊島美術館竣工
2010年 プリッカー賞受賞
西沢立衛氏は、曲線とガラスを多用した開放的な建築が特徴で、その活動範囲は建築設計にとどまることなく、空間構成、家具デザインや集合住宅など多岐にわたっています。
美術館のある豊島
豊島は、瀬戸内海の小豆島と直島の間に位置し、面積14.4k㎡、周囲19.8km、標高340m、人口約700人の島です。島の中央にある壇山には原生林が広がり、豊かな湧き水を擁しています。古くから稲作や漁業、酪農が栄え、文字通り「食の豊かな島」でした。
1960年頃より過疎、高齢化が進み、周辺の農地は数十年間耕作放置され続け、豊島美術館周辺にある棚田は竹や樹木に覆われていました。2009年、瀬戸内国際芸術祭を契機に豊島美術館の新設とともに「食プロジェクト」を開始し、棚田を復活させています。
瀬戸内海豊島の概略図
豊島美術館ができるまで
美術館計画の経緯
1985年、瀬戸内海の島に世界中の子供たちが集える場を作りたいとの思いを抱いていた福武書店(現:ベネッセ)の創業社長福武哲彦と、直島に教育的な文化エリアを開発したいとの夢を描いていた当時の直島町長三宅親連の思いが重なり、ベネッセアートサイト直島が始まった。その後事業を引き継いだ福武總一郎氏により直島プロジェクトは進んでいった。
1996年にはサイトスペシフィック・ワークへの方向転換を行い、1998年には家プロジェクト、2004年には直島に地中美術館がオープンしていった。地中美術館のオープン前後の頃に福武總一郎氏から西沢立衛氏に声がかかり、次の美術館プロジェクトが開始となった。
設計の過程
施主からの要望は、場所は直島で、建築と自然とアートが一体化したものであった。しかし、アーティストはまだ未定とのことであった。
西沢立衛氏は複数のアーティストを想定した多種多様な案で検討を進めた。2005年4月頃の案は、2~3作品の可能性を設定し、それぞれにボリュームを検討しているものであった。
この段階では、壁が急になっていたり、イレギュラーであったりと建設的分節が強く、アートと一体化しにくいものとなっていた。
その後、西沢立衛氏の考えは、次第に展示作品を設計の与条件とするのではなく、包括的な単一の大空間と自然に調和すべく自由曲線で形づくったダイアグラムへと向かっていった。
作品の魅力を妨害することなしに、かつ光を提示する空間ということを考えた結果、無限遠のような大空間をつくろうと私たちは考えた。厚み200mmのコンクリートによる大きなシェル状の構造体によって、非常に大きなワンルーム空間を作り出す。
それは通常の部屋のような角を1つも持たないため、また空間サイズが大きいため、空間に入った瞬間は、空間の姿形がよく見えない。まるで宇宙のような、どこまでも続くような無限の環境が広がる。
私たちは建築空間それ自体を、作品のための背景と考えているが、しかし同時に、単に背景であることを越えて、ある1つの特別な環境・情景となっていくことを期待した。そのことによって、空間の中に作品以外には光しか存在しないような状態を、作り出そうと考えている
施主の想い
福武總一郎氏は、瀬戸内のアートを通じて、都市によって傷ついた瀬戸内の島々を建築と現代美術によってあるべき姿を示していくことを考えていた。犬島では大正時代に操業を停止し放置され続けてきた銅の製錬所の遺構を美術館として再生させるプロジェクトを進めていた。そして、豊島は大量の不法産廃による汚染水で苦しめられていた。また、少子高齢化による休耕田の問題など、まさに都市によって傷つけられた島の一つであった。自然水が湧き出る豊島の唐櫃地区休耕田を復活させ、日本人の建築家とアーティストによってつくられた美術館と日本の原風景である棚田により日本ならではの世界観をつくることを考え、美術館を直島ではなく、豊島に建設することとした。
復活された唐櫃の棚田
アーティストの決定
立地が瀬戸内海を望む豊島の唐櫃地区の小高い丘と決まったことより、西沢立衛氏は、美しい棚田が広がる唐櫃の等高線にそうような建物とし、イメージを水滴と決めた。そして、そのイメージを基に、母性を感じさせるとともに水の作品を展開していたアーティスト内藤礼氏に作品を依頼することとなった。
内藤礼氏は、この話を聞いた時、この企画は自分がずっと追い求めていたテーマ「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」そのものであったため、非常に驚き喜んだたそうである。
西沢立衛氏は、一筆描きの自由曲線で、作品のためのワンルーム空間とし、豊島の棚田や坂道など人工的なものと自然が調和しているように、人工なのか自然なのかわからない、丘のような建築を目指した。
こうして、施主、建築家、アーティストが見事にコンセプトに共感することができ、互いにディスカッションを重ね、ここでしかみられない特別なアートが生み出されていった。
アーティスト 内藤礼
1961年 広島県生まれ
1985年 武蔵野美術大学造形学部卒業
1991年 「地上にひとつの場所を」で注目を集める
1995年 「みごとに晴れて訪れるを待て」開催
1997年 ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展日本館にて展示
1997年 「Being Called」フランクフルトにて開催
2009年 「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」開催
美術館建設工事
豊島美術館の施工は鹿島鹿島建設㈱がおこなった。地中美術館を手掛けた鹿島建設㈱の豊田郁美所長がふたたび陣頭指揮を取った。
建築家・アーティストからの作品への要望
- 水滴をイメージした滑らかな形状を実現したい
- コンクリート素材だけで建築を表現したい
- 胎内を思わすシームレスな内部空間にして欲しい
これらの要望に対応するには、空間に柱が1本もないコンクリートシェル構造とする必要があった。
大屋根のスパン約60mは、コンクリートシェル構造では珍しくない規模であるが、最頂部4.67mに抑えることは困難を極めた。ドーム屋根は、一般的に頂部が高い程、アーチ状の半円に近づき構造が安定するが、頂部が低ければ、補強材は増え断面の厚みがますため、低くて薄い大屋根をいかにつくるかが問題となった。
豊島美術館資料より
盛土の構造
大きな孔
西沢立衛氏は、大きなふたつの孔をガラスなどで閉じると、内部が閉じられた空調空間なってしまうため、孔を塞がずそのままオープンなかたちにし、雨が中に入り込んで作品に合流し、アートと自然が一体化させていきたいと考え、内藤礼氏に孔を塞がずそのままとすることを提案した。
内藤礼氏は、建築家が考えたプランを「どう受容していくのか」自身へ問いかけ、大きな開口部からの四季の光や雨風の入り方を調べて、その位置を微調整するなど、建築的に問題ない範囲で相談し、作品をつくりあげていった。
ランドスケープ
豊島美術館では、館内に入るには小高い丘を一周できる周回路を設けています。瀬戸内海の美しい眺めや、豊島の豊かな自然を感じながら、徐々に内藤礼氏の作品に近づいていく導線となっています。
豊島美術館の施設
土に埋められたチケット売場は入口の奥に位置しています。チケットをもらい振り返り、周回路に沿って進むと風光明媚な瀬戸内海が目の前に広がっており、豊島の美しさを再認識させてくれます。