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津山文化センターの魅力を探る|建築家 川島甲士

岡山の名建築

津山文化センター

津山文化センターは、鶴山に築いた地上から45mに及ぶ立派な石垣が当時の面影を残している津山城の一角に、「現代の城」をイメージして市民の総意でつくられた文化センターであった。津山文化センターの魅力についてみていきました。

立地

岡山県の県北に位置する津山は、本能寺の変で討死した森蘭丸の弟森忠政が入封し美作国の大半を領有し、鶴山に津山城を築城して城下町を整備し、美作全体を一括して統治を行う中心的地域であった。
 
津山城は、小山や丘陵部と平地を利用して造られた城で、山城と平城の性質を併せ持つ城として、姫路城、松山城とともに三大平山城と称される名城。明治6年の廃城令とともに天守、櫓などの建築物は破却され、石垣が残るのみとなったが、築城に約13年かけられた城は、五層五階、地下一階の天守と70以上の櫓、それらを取り巻く石垣や堀など、旧美作国国主としての威信を誇るものであった。

津山城周辺概略図

津山城周辺概略図

津山文化センターの場所には、明治の廃藩置県では、津山県庁舎が置かれ、その後の美作圏を一つにする北条県にもそのまま県庁舎として引き継がれ、行政機関の中心の地となっていた。その後、岡山県に編入後は、小学校が設置され教学の場となった。

建築家 川島甲士

1949年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
    清水建設設計部、逓信省営繕部設計課
1957年 退職後川島建築設計線急所を設立
    芝浦工業大学建築科の助教授就任
1962年 国立京都国際会館の設計に応募
1965年 津山文化センター竣工(BCS賞受賞)
1968年 西都原考古資料館竣工(BCS賞受賞)
2009年 逝去 享年83歳

津山文化センター

経緯

「われわれの集会場がほしい」という婦人たちのささやかな願いから端を発して始まり、音楽・演劇、講座や催しなど多目的に利用できる市民のための文化施設「美作産業文化会館(仮称)」の計画が立ち上がった。この時、すでに潰されていた津山城の再建も検討されていたが、「昔の城より、現代の城を創ろう」と文化センター建設が1957年決定された。
婦人会による街頭募金などが行われ、総工費2億8千万円のうち1億2千万円は厚生年金保険融資、残りを県の補助金、市費及び寄付金にて賄われるなど津山市民の総意にてすすめられ1964年10月に着工となった。

津山城石垣

津山城石垣

津山市は設計については、当初大手設計会社に依頼するも、デザインが「おもしろくない」として気に入らず契約を解除した。
そのような経緯の中、独立したばかりの川島甲士氏に依頼がきたのは、たまたまその時期に津山市出身の陶芸家白石齋氏と組んで仕事をしていたことから、白石齋氏経由で依頼がきたのであった。

建物特徴

川島甲士氏がイメージしたのは、明治の廃藩置県・廃城令によって取り除かれた悠久の城に想いを馳せ、石垣のフラットな天端に神を見、二層に組み上げた斗栱の上を石垣に合わせてフラットルーフにした建物であった。
構造設計の木村俊彦氏が試みたのは、西洋の形を真似るのではなく、日本の伝統的な形を基に、それを当時の最先端の技術でつくろうとし、出来たのが逆台形の寺院建築のような建物であった。鉄筋コンクリートの建物に伝統的なデザインを取り入れることで、市民が訪れやすい建築を目指した。

津山城からみた津山文化センター

左奥に津山文化センターがある

斗栱

津山文化センター
寺院の斗栱

桁などの横架材の荷重を分散するために、柱と横架材の間に斗栱(ときょう)という部材を挟みます。軒が深くなるほどその垂木を支えるために、斗栱を一手、二手、三手と組み上げていきます。これは、太い部材を取り出すのは製造的にも輸送的にも、施工的にも難しかった古代に生み出された木造の工法であった。
津山文化センターでは、深い軒が三重に巡り、上にいくほどひろがっている。軒を支える構成が斗栱のようになっており、伝統的なデザインを鉄筋コンクリートの建築に取り入れられている。
 
力学的な意味、支保工として、そして寺社建築のような荘厳さを持った外観的効果から斗栱は、完璧なグリッドにより割り付けられている。
 
川島甲士氏は「斗栱」を用いて、1962年に行われた国立京都国際会館の公開設計コンペティションに応募していた。残念ながら採用とはならなかった「斗栱」が津山文化センターで日の目を見ることとなった。

展示ホールの壁面

展示ホールの壁面は、ボリュームから独立し、一枚の面として扱われており、その表面もザラザラとした質感が十分に伝わってくる迫力のあるものとなっている。デザインは、グラフィックデザイナーでメタボリズムメンバーの一人粟津潔氏によるもの。5人の職人が蚤で1ヶ月かけてつくった壁面の手の痕跡は、建築に大きな魅力を与えている。
 

粟津潔氏のデザインによる壁面

粟津潔氏のデザインによる壁面

建物内

1階のホワイエの床は黒モルタルブロック300角。タイルが貼られたアートな壁面は白石齋によるもの。

津山文化センターホワイエ
津山文化センター 凹凸のあるコンクリート壁
津山文化センター 螺旋階段
こだわりを感じる凹凸のあるコンクリート壁や朱色の螺旋階段。

 
増築されたエレベーターホールでは斗栱がそのまま残っており、間近で迫力ある斗栱を感じることができる。

林原美術館 中庭

建築はRC造地下1階、地上3階建てとなっており、地階から最上階までにホールとフライングタワーが納められており、外観からはホール建築には見えない。

津山文化センター ホール
津山文化センター
 
上階にいくにつれて、バルコニーや屋根が持ち出されることによって、日本建築の「屋根」という要素を「軒」として表現している。そのため、町から見上げられる建築であることを意識して、その「軒性」によって日本的な現代建築として成立させている。
 
津山文化センター
 
2018年度に津山市は約17億円をかけ大規模修繕を実施している。特徴的な外観を維持しつつ、エレベーターホールやエントランスを増築し耐震補強やバリアフリー化を図っている。津山市民の芸術活動の場を半世紀支えてきた川島建築が次世代に残ることとなったのは、津山市民の文化センターへの想いや特徴的な建物への愛着からであろう。嬉しい限りである。

 

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