直島小学校は、1959年に初当選した直島町三宅親連町長が初めて編成した予算大綱説明を基にした「子供たちの創造力や豊かな人間性の育成をはかる」ため「幼保一元化」「幼小中一環教育」を教育姿勢とする学校施設、社会教育施設として整備されました。
直島町
直島は、高松市から北へ約13km、岡山県玉野市から南へ約3kmの備讃瀬戸に浮かぶ島。直島本島は東西約2km、南北5km、周囲16kmで面積は8.13平方キロ。人口は約3千人。
戦国時代は水軍の将でキリシタン大名でもあった高原次利が治めていたが、1671年高原家6代目の時に改易され、倉敷代官所支配の天領となった。
天領となってからは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に許可され、島内外からの一座や観客で大変にぎわった。
明治維新後の廃藩置県により倉敷県や丸亀県などを経て香川県となった。直島の産業は農業、漁業を中心としていたが、明治時代には多額の支出を伴う耕作整理や凶作の連続、伝染病の発生など村の財政は悪化していた。松島村長は企業誘致しかないと判断し、三井造船に進出を働きかけるも交渉は不調に終わった。その直後の1916年三菱合資会社から製錬所の打診をうけたのであった。
この時代、足尾銅山や別子銅山などで製錬所の亜硫酸ガスによる環境被害が問題となっていたことより、各精錬所は瀬戸内海の島しょう部に目を向け、1896年に住友の別子銅山は新居浜市沖の四阪島へ製錬所を移転していた。直島のほか契島や犬島などにも製錬所がつくられていった。
製錬所のある直島北部
三宅親連直島町長
1908年生まれ
1959年直島町長初当選以来1995年まで9期36年在職。直島を3つのエリアに分け、北部を三菱マテリアルがある産業エリア、中央は文教地区、南部を観光文化エリアとし、インフラ整備や観光施設の誘致などを積極的に推し進めていき、直島の発展に貢献。
三宅家は天領倉敷の代官に仕える直島の大庄屋。遡ると三宅家は平安時代末期の崇徳天皇(崇徳上皇)の子孫とも言われています。
三宅町長は、小学校の設計を建築計画学の創始者でもあった東京大学吉武泰水教授に依頼し、吉武教室の生徒であった石井和紘氏が直島に赴き小学校を手がけた。この時の石井和紘氏の熱意や仕事ぶりなどに触れていくうちに、若者を応援したいという想いが強くなり、その後の直島の公共施設を任せることとなった。
建築家石井和紘
直島町役場
1944年 東京生まれ
1967年 東京大学工学部建築学科卒業
1971年 直島小学校竣工
1972年 イエール大学留学
1974年 直島幼稚園竣工
1975年 東京大学博士課程修了
1976年 直島町民体育館・武道館竣工
1976年 石井和紘建築研究所設立
1979年 直島中学校竣工
1983年 直島町役場竣工
石井和紘は、多様性をテーマにした54の窓(増谷医院)でポストモダン建築家として注目を集め、1970年代には石井旋風を巻き起こし、第2の黒川紀章の様相を呈しました。建築家槇文彦から「平和な時代の野武士」とも呼ばれました。後年は日本的伝統が大きなテーマとなり、初期の作風からは大きく変容を遂げた。
増谷医院(現存せず)
直島学校群
直島文教地区
直島小学校の特徴
小学校は地蔵山の麓に建てられており、左右対称の建物で中心部には大きな傾斜がついています。背後の稜線を意識した低層の建物は、一段下がったグラウンドから見ると要塞のようにも見えます。
中央に玄関を設け、十字型の廊下を軸にしてグラウンド側に特別教室、山側にクラスルームを配置。校舎の中心にある図書館は天窓から自然光が入る象徴的な空間になっており、その左右に教室が配置されています。
小学校の建物の一つ一つは大きいが、全体の山に比べると遠くからは小さく見えるようになっていた。それは、小学生が6年間通学している間、山は大きかったんだ、山の存在は大きかったと感じてもらえるように設計されていた。
体育館が校舎内にあって、休憩時間にも活用できたり、お手洗いが渡り廊下の役割も果たしていたりと、児童が屋内でも活動できる工夫がされています。
体育館のシステマティックなトラストの天井伏は研究室の後輩である伊東豊雄氏が描いた。
直島中学校の特徴
背後の地蔵山の山容と相似の構成となっており、東麓の谷筋地形に合わせ校舎を配置し、武道館・体育館に接続させ、これらをコロネードで結びつけています。
金子知事と三宅町長
金子香川県知事は三宅直島町長の1歳年上の1907年生まれ、戦前は裁判所の判事であった。判事時代に三宅親連氏との出会いがすでにあった。それは、ある事件に連座して被告として法廷に立った三宅親連氏の裁判を担当したのが金子正則判事であった。
三宅氏は法廷で「日本の精神を守るため」として事件の動機を熱く語った。その裁判を担当して以降、金子正則氏は日本の精神とは何かと問い続けることとなった。そして出会ったのがブルーノタウトの著書であり、芸術こそが時代の精神をかたちで表すことができると気づいたのであった。
1949年に知事となった金子正則氏は、県庁舎建築設計に新進気鋭の東京大学丹下研究室の丹下健三氏、内装及び家具にブルーノタウトの弟子である剣持勇氏を起用し民主主義における県庁舎のあり方を示した。また、高等学校の校舎にも後に国立能楽堂を手がけた大江宏氏を起用し、建築を通じ香川県の文化の礎をつくっていった。
香川県庁舎ロビー
一方の三宅親連氏も1959年の町長就任後は、町の自主独立をはかるため産業と観光の推進を図るとともに、教育政策に力を入れた。直島小学校建設には東京大学吉武研究室に依頼し、後にポストモダニズムの旗手となった学生の石井和紘氏を起用し、直島に新たな文化を根付かせていった。
また、三宅町長は倉敷絹織(現クラレ)創業者の大原孫三郎氏から影響を受け「経済は文化のしもべ」と考えていた福武總一郎氏と現代アートの島をつくっていった。
二人は県知事と町長との立場の違いはあったものの、金子知事が打ち出す建築文化に対する三宅町長のライバル心があったからこそ、島の公共建築に対する積極的な取組みとなったのではないでしょうか。
また、天領として倉敷とのつながりもあったことより、倉敷の大原美術館で実践されていた「経済は文化のしもべ」を強く意識していたからこそ、島の芸術・文化を企業誘致にてできないか模索したのでしょう。そして、それらの活動は現代アートの島としての直島メソッドを確立することとなっていった。
海外からの観光客で賑わう直島