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現存三重櫓の高松城月見櫓の魅力を探る

香川の名建築|高松城月見櫓

高松城艮櫓

左:艮櫓 真中:鹿櫓 右:月見櫓(高松市HPより)

高松城月見櫓は、瀬戸内の警備や高松城に船から入城する看守として利用された櫓です。当時としても格式の高い三重櫓が威風堂々と佇んでいます。今回は、数少ない三重櫓が高松城にできた背景などを考察しながら、月見櫓の魅力をみていきます。

高松城月見櫓

城の建物とは

城の建物の種類

城の建物には天守、櫓、御殿などがある。天守は城の中心となる場所に建てた象徴的な建物であり、主に戦いのための重要施設でした。櫓は見渡しやすい城の角に置くことが多く、隅櫓は多く存在します。本丸御殿が殿様の住む場所になります。
なお、高松城は生駒親正により1588(天正16)年築城開始。当初の天守は三重三階の天守であった。城の設計(縄張り)は諸説あるが、秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛(如水)と言われており、水軍の軍用も考慮して築城された日本初の海城である。

江戸時代初期の高松城絵図

江戸時代初期の高松城

三重櫓

三重櫓とは櫓の屋根の数で分類したもので、単独なら平櫓、2層なら二重櫓、3層は三重櫓となります。4層以上は必然的に天守扱いとなり、櫓の中で最大かつ最高格式となるのは三重櫓「御三階」(ごさんかい)とも呼ばれ、天守のない城で天守代用とした例も多い。現存天守に数えられる弘前城や丸亀城の天守はこれにあたります。
 
現存している天守は12城のみですが、現存している三重櫓も12基のみで高松城の月見櫓、艮櫓ともに現存三重櫓であり貴重な櫓である。
 
弘前城

弘前城天守(青森県)

※弘前城には五層の大天守があったが、1627年落雷による火災で焼失。武家諸法度により五層以上の天守閣の建築が制限されており、櫓で代用していた。1810年に蝦夷地警備の功によって天守櫓移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築されたのが御三階櫓と称される天守です。


現存する三重櫓

  城名   櫓名     建築年

  • 弘前城  丑寅櫓   1611年(慶長16年)
  • 弘前城  辰巳櫓   1611年(慶長16年) 
  • 弘前城  未申櫓   1611年(慶長16年)
  • 江戸城  富士見櫓  1659年(万治2年) 
  • 名古屋城 西北隅櫓  1619年(元和5年) 
  • 彦根城  西の丸三重櫓 慶長年間
  • 明石城   坤櫓   1620年(元和6年)
  • 明石城   巽櫓   1620年(元和6年)
  • 福山城  伏見櫓   1622年(元和8年)
  • 高松城  月見櫓   1676年(延宝4年) 
  • 高松城   艮櫓   1677年(延宝5年) 
  • 熊本城  宇土櫓   1601年〜1615年頃
伏見櫓

福山城伏見櫓

宇土櫓

熊本城宇土櫓


高松松平藩

高松松平藩誕生の背景

徳川幕府の年表

徳川家康は関ケ原の戦いで勝利した後も徳川方の勢力を京都以西へ配置できずにいた。そのため、西国地区への勢力拡大と外様大名への監視が最大の課題であった。
 
1601年に池田輝政(外様ではあるが家康の娘婿)を播磨姫路52万石に転封し初代姫路藩主として姫路城の大規模修築を開始。1615年には武家諸法度を制定し、築城の制限をかける一方で、1617年山陽道で丹波への分岐、淡路・四国ルートと交通の要衝である明石に譜代大名小笠原忠真を転封し、築城命令を出し明石城を着工。坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城から移設している。天守は大砲の目標となりやすいことから設置しておらず、坤櫓が天守代用として使用された。
 
1619年には福島正則の広島城無断修繕による改易に伴い広島藩を分割し、福山藩を新設。福山藩に水野勝成(家康従兄弟)に10万石を与え転封。福山城は西国街道と瀬戸内海の要衝(瀬戸内海に抜ける運河があった)を護る城として五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模新規築城となった。櫓などは伏見城から移設している。そして、四国では伊予松山藩の蒲生家が嫡嗣なくお家断絶となり1635年松平定行15万石で入封。同年今治城主藤堂高虎を伊賀国に移し、松平定房(定行弟)を今治城に入城させている。

 
徳川時代の勢力図
 

地図から見ても分かる通り、徳川幕府としては外様大名の監視と瀬戸内海の平定による幕府のさらなる安定を図るには、高松は重要な拠点であった。特に、高松城は海城であり、瀬戸内の監視には魅力的な拠点であったにちがいない。

福山城

福山城

姫路城

姫路城

明石城

明石城(左側坤櫓、右側巽櫓)

新築、大規模修築された姫路城、明石城、福山城いずれも豪壮な城となっている。


初代高松松平藩主の父である松平頼房

初代高松松平藩主松平頼重の父徳川頼房は、徳川家康の11男(末子)であり、水戸徳川の初代藩主で徳川御三家。徳川御三家の中では格が低く、1636年まで徳川姓を名乗ることを許されていなかった。歌舞伎者であり正室を迎えない頼房に対し兄の将軍秀忠には不興をかっていたが、甥であり1歳年下の家光(三代将軍)とは幼少期から親しくしていた。
 
御三家のうち尾張藩は反抗的であり、紀州藩は武功派であり謀反を警戒していたこともあり、水戸徳川藩主頼房は家光からの信頼は厚かった。頼房は家光から江戸に定府するよう要請され、江戸に常住し「水戸は天下の副将軍」とまで言われるようになった。

高松松平藩家祖である松平頼重

松平頼重は、高瀬局により嫡男として産まれたものの、頼房は産むことを許さなかったため、父である頼房に知られず密かに養育された。弟光圀(水戸黄門)が誕生後に、将軍秀忠に密告があり嫡男がいることが幕府に知られた。
 
幕府は、御三家の内水戸藩だけが世子が決まっていなかったため、お家安定のため世子決定を期限を定め求めたが、その時頼重は京都にて養育されており、また病弱であったため江戸に行くことができず、弟である光圀が世子となった。
 
三代将軍家光も秀忠の長男でありながら、両親に嫌われ継嗣の立場を追われそうになった経緯があり同士の絆を築いたようだ。実際、1638年家光に御目見後、1639年下館5万石、1642年高松12万石の藩主となっている。これは御三家の分家の最高石高が3万石であった中で特別の待遇であった。また、幕府内の立場も最高の格式である溜詰の間(幕政顧問の立場にある大名)を与えられたり、将軍名代として後水尾上皇に拝謁するなど幕府内での政治力は強かった。※溜詰の間は以降、彦根藩井伊家、会津松平家、高松松平家の三藩の定席となっている。
 
頼重は、京都、水戸で家臣から徳川御三家の嫡男として育てられたことや江戸での高度な文化に接することができる高い地位でもあり、高い知見と幅広い教養を備え持っていた。これは、高松の文化面にも大きな影響を与えた。三千家の一つである武者小路千家の祖である一翁宗守を高松藩に招聘し、武者小路千家を高松藩の茶道指南役としたり、漆器や彫刻にも造詣が深く、これを振興し蒟醤、存清など高い技法を用いる香川漆器の基礎をつくっている。また、隠居後は栗林荘(栗林公園)を居所とし、庭内を整備し趣のある庭園を造営していった。


高松松平藩による新生高松城

生駒藩の転封と高松松平藩の誕生

高松城を開場した生駒家は1640年生駒騒動により生駒高俊は領地没収され、出羽に転封となり生駒氏の治世は四代54年で終わった。
幕府は中国・四国の監視役とポルトガル船の入港を禁止するなど緊張感が高まっていた瀬戸内海の沿岸防衛体制を固める一翼を家光からの信頼が厚い水戸徳川家の松平頼重を高松藩主とすることで対策を講じた。その役割を担った高松藩は瀬戸内海にとどまらず、今治藩と長崎の警備にもあたっていた。

高松城改修

武家諸法度で城の修復が厳しく制限されているなか、幕府は西国と瀬戸内海の監視としての重要拠点として高松城改修を命じ、頼重は幕命に従うかたちで大規模な改修を重ねている。天守は1670(寛文10)年に三重四階、地下一階の5層構造。当初は姫路城天守を模倣しようとしたが断念し、小倉城天守を模倣したことより、最上階が一つ下の階よりも張り出して造られる「南蛮造り」と呼ばれる構造へと改修されている。

高松城天守

高松城天守(高松城天守復元HPより)

天守改築後も頼重と2代藩主頼常は1671(寛文11)年から1677(永宝5)年に北ノ丸(新曲輪)・東ノ丸の造営を行い、月見櫓や艮櫓を建築した。
造営工事の内容

  • 北ノ丸は三ノ丸北東部を拡張し、石垣で三ノ丸と分離し造営。
  • 東ノ丸は堀を掘削して造営され、桜 ノ馬場南面に所在した大手門の木橋を撤去。
  • 桜ノ馬場東面に造営された太鼓門が大手門としての機能を担うようになった。
  • 新曲輪の造営後、三 ノ丸に御殿 (披雲閣)が造営される。

披雲閣の造営により、それまでの御殿 (本九→本丸・ニノ丸)と対面所 (桜 ノ馬場)に分掌されていた政庁機能が一本化された。また、西ノ丸にあった家臣ないし身内の屋敷を外曲輪へ移動 し、内曲輪と外曲輪との機能分化が明確化し、藩主権力が確立されている。
 
かなり大掛かりな造営であり、莫大な工費がかかっていると思われるが、高松城が重要な拠点であり、かつ藩主の松平頼重が将軍家光と親しく、強力な政治力があったからこそできたのであろう。

高松城図面

生駒時代(高松城史料調査報告書より)

高松城地図

造営後(高松城史料調査報告書より)

造営後は海沿いに左から簾櫓、武櫓、月見櫓、鹿櫓、艮櫓の規模が大きな隅櫓が連立していた。そしてその奥には本丸が配置され、海上から見ると要塞のように配置されていた。
なお、艮櫓は昭和40年に解体修理を行い南側の太鼓櫓跡に移築復元されている。


高松城月見櫓の特徴

高松城 月見櫓

高松城月見櫓は、北ノ丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓。1676(永宝4年)に上棟。到着を見るという意味の「着見櫓」が本来の名称であり、藩主が船で帰ってくるのを櫓から望み見たことから名づけられた。
月見櫓は海に張り出した北ノ丸の西の角に位置し、城内でも特別な場所に建っている。南側に付属する続櫓や、それに続く水手御門からは海に直接出られる。この門は藩主がここから船に乗り降りするための出入口であり、高松城の海の大手門だった。

水手御門

水手御門

月見櫓からみた瀬戸内

月見櫓から見た瀬戸内

海の玄関口にある櫓だけのことはあって、月見櫓は非常に凝った造りとなっている。1階から上階に向かって平面を少しずつ小さくして重ねる層塔型で、1階5間四方、2階4間四方、3階が間四方と規則正しく逓減しており、均整がとれている。海に面した石垣上には、1階の屋根の平側(棟に平行な側)には石落としを兼ねる唐破風の出窓、妻側(屋根勾配が三角に見える側)には、やはり石落としを兼ねた切妻破風の出窓が設けられている。また、2階の妻側には屋根を弓型に盛り上げた軒唐破風がついている。これらはすべて左右対称に陸側にもしつらえてある。

高松城月見櫓

新発田城櫓

新発田城 旧二の丸隅櫓

彦根城西の丸櫓

現存三重櫓の一つ彦根城西の丸三重櫓

一般に櫓は城内側には破風どころか窓もつかないものも多い。月見櫓は切妻破風の出窓の反対側には、同じ意匠で玄関を設置している。また、唐破風の出窓の反対側は、続櫓につながる場所なので破風は必要ないが、破風の下に出窓の張り出しまで造られている。窓は海側にも同じ位置に同じ数があり、左右対称にこだわっている。窓の上下に巡らされた白木の長押もアクセントとなっている。また、軒裏の意匠、軒を支える垂木をすべて隠して軒裏を平らに塗り籠めた板軒型など、これらは天守のための意匠でもあり、この櫓が、海の天守だったともいえる。

高松城 月見櫓
高松城 月見櫓

月見櫓の南側に付属する続櫓と平櫓に挟まれた水手御門は全国唯一の現存する貴重な海の大手門である。

高松城 月見櫓と水手御門
高松城 水手御門

高松城は徳川幕府の西国大名や瀬戸内海監視の重要な拠点であったこと。また、松平頼重の強い政治力や文化的教養の高さから拘りのある豪壮な高松城を整えることができたのである。その中心的な櫓であった月見櫓は高松城の海からの玄関として、代用天守にもなりうる立派な櫓として造られており、後世に遺していかなければならない名建築である。

高松城(玉藻公園)の管理を行っている高松市は高松城の再建に積極的に取り組んでおり、高松空襲で焼失した桜の御門を令和4年に再建している。また、天守についても復元を検討しており、資料収集に取り組んでいる。
なお、月見櫓は令和5年に改修工事が行われたが、栗林公園などの文化財から一般建築までを手掛ける地元建築業者である香西工務店による施工がおこなわれた。

高松城 桜の御門

令和4年再建された桜の御門

改装中の高松城月見櫓

改修中の月見櫓

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