高知県立牧野植物園

牧野富太郎記念館|建築家内藤廣

高知の名建築

高知は台風銀座であり、潮風は五台山に当たる。五台山に吹き付ける雨風はなまじっかなものではない。ここでは雨は上から降るのではなく、下から降ることを強烈に教えられた。

建物の形状が決まるまで

牧野植物園建物構造のプロセス図

建物の構造ができるまでのプロセス

 
牧野植物園に建築する牧野富太郎記念館は山麓の環境に加えて台風が頻繁にくる高知では巨大な風圧に耐える屋根が必要。そこで地形に合わせるように架構システムを考え、五台山の風圧を柔軟に受け流せるような有機的な屋根を考えた。
 
高知県牧野植物園

本館、展示館いずれも法線上で原点を共有しておらず不連続な曲線である。この曲線の集合体が最善であるという結論に到達し、今までにない独特な形態となった。

高知県牧野植物園

高知県HPより


建築家 内藤廣

  • 1950年 横浜市生まれ
  • 1976年 早稲田大学大学院修士課程修了

       大学院時代吉阪隆正氏に師事 

  • 1979年 菊竹清訓建築設計事務所勤務
  • 1981年 内藤廣建築設計事務所設立
  • 1992年 鳥羽市立海の博物館
  • 1997年 茨城県天心記念五浦美術館
  • 1999年 高知県立牧野植物園
  • 2005年 島根県芸術文化センター
  • 2009年 JR高知駅
  • 2015年 静岡県草薙総合運動場体育館
  • 東京大学副学長を経て多摩美大学長に就任。
鳥羽市立海の博物館

鳥羽市立海の博物館


海の博物館での経験

ローコストと耐久性、双方の限界に迫った建築への挑戦

バブル全盛であった東京の1/4の予算坪50万円で博物館の使命である長期保存より「100年は持たせたい」との要望という仕事のなかで、最低限の仕様で、この地域の塩害、風、雨といった厳しい風土条件をクリアするには、かっての集落にあった単純で素朴な地場の知恵を借りることであった。経済性と耐久性に対する解は、自然と技術の直截な応答が「素形」を生み出すとの考えに至った。
マテリアルの成り立ちからディテールに至るまでの全体を理解し、無駄なものを限界点まで削り出してデザインをしていく。当時の主流だったポストモダニズムとは真逆のことをしていった。
建築を成立させていく条件が厳しいと、建築は余計な無駄を省いて何を中心に組み上げるか、何を最後まで確保するのかが次第に明確になってくる。形態の操作を捨象し、時間をその核に据えるという考えが浮かび「削り出す作業を繰り返していくと、その延長線上に、本来の建築が持つ強さが見えてくる」とし、そして「施主の状態や思い、敷地の条件などを突き合わせて、答えを用意するだけでは何かが足りない。多くの場合、建物を建てる目的は単純化できない複雑な背景を背負い無数の人の思惑が錯綜する戦場のようなものである」と内藤廣氏は語っている。
この海の博物館での設計経験が内藤廣氏の進む方向を決定づけた仕事となった。

鳥羽市立海の博物館

鳥羽市立海の博物館

茨城県天心記念三浦美術館

岡倉天心の辞世の句

我逝かば花な手向けそ浜千鳥
呼びかふ声を印にて
落葉に深く埋めてよ
十二万年明月の夜
弔い来ん人を松の影

茨城県天心記念五浦美術館

茨城県天心記念五浦美術館

内藤廣氏は牧野植物園を手掛ける直前の三浦美術館の構想を錬っている時に「隠れる」という建築の在り方を意識するようになった。天心の辞世の句のように建物を密やかに隠れて在るような在り方があるのではと考えた。建物の全景は見えずともよい。むしろ見えない方がよい。建築は周囲の環境に埋もれて、隠されたように建っている。というのが周囲との関係を受け入れ、それと強く切り結ぶことによって、敷地や環境が持っている生来の矛盾や不透明さを建物の仕組みの根底に色濃く引き受ける宿命を持つことになるとの考えに至った。


常に新しいことを目指す

技術・形態・建築の考え方など新しいものを取り入れていくのが、内藤廣氏のやり方
 
海の博物館で評価を得て、同じようなつくり方をするのが一番楽であり、頼む方や造る方の双方がイメージしやすくわかりやすくなる。そうではなく、それぞれが持っている事情をもっと深く形にしていき、いままで考えてきたものにあてはまらない場合には同じ形に拘ることなく、変更していき新しいものを取り入れていく。非常に勇気がいることではあるが、牧野植物園では牧野富太郎博士のすごさや気象条件、地形などがわかってきた段階で、もっと捨て身になってやってみようと思い、いままでの方法をご破算にして取り組んでいった。

牧野植物園
田窪恭治氏による水盤「感覚細胞」

田窪恭治氏による水盤「感覚細胞」

基本的にはできるだけ造成を少なくして自然と地形を使って伏せる形を当初から考え、施工者と一緒になって実験をおこない詳細を決めていった。文節型で細かく屋根が分かれるようなもの、膜構造に近いようなサスペンションを使ったものなど、模型は3~40個をつくった。地形をいじらないように、建物の周囲をできるだけ低く、庇線をとにかく木よりも低く下げるようなことを軸に形を決め、大きな展示室を高さを含めてきれいに収めるにはどうしたらいいか考えた。

牧野植物園

牧野植物園の建物は緑に隠れて、インテリアの空間だけが残るようにしていく。そうすることで、樹木の生育により風に対して建物も環境も抵抗が強くなっていく。10年後には森の中の建物という恰好になれば、台風が来ても大雨が降っても今よりもっと楽に耐えられると内藤廣氏は考え、建物を周囲の木よりも低くし、環境に溶け込ませる建築、つまり先行きの変化を自然環境に預けるという発想で造っていった。結果「何だ?これ」と思えるような面白いものが出来上がった。ある意味「海の博物館」のようなつくり方を一旦壊したという意味においても内藤廣氏にとって牧野富太郎記念館は印象深いプロジェクトとなっている。

牧野植物園
牧野植物園

内藤廣氏は牧野植物園で風のことをやっているうちに、設備ではなく、空気環境というテーマでマネージメントしていくことが面白いのではないかと考えていくようになった。


牧野植物園記念館は、五台山の北斜面にへばりつくように在り、威容を誇る現代建築といった様相ではなく、技術と発想から形態化した施設となっている。外見的美しさを誇示するのではなく、樹林の中に垣間見せ、むしろ壁や屋根、自然に囲まれ、空を含む自然に抜けた半屋外的空間が気持ち良く、シークエンスを含めてすぐれた空間の質を獲得しており、社会性は高いと村野籐吾賞などの各種表彰を受賞するなど高評価を受けている。


牧野植物園記念館の完成から20年以上を経ており、樹木は成長し、内藤廣氏がイメージしていた森の中の建物となっている。五台山の自然を尊重する景観や牧野富太郎博士の植物学者の思想性に通ずる造形美は年を経るごとに増してきている。是非、牧野富太郎博士の植物の生命に対する執念のごとく取り組んだ功績と、建築家内藤廣氏が目指した「大気と一体となり、共に環境を育むような建築」を楽しんでほしい。


名ミュージアム