平山郁夫美術館は、平山画伯のふるさとである瀬戸内の風光明媚な生口島につくられた美術館。平山画伯の日本画にふさわしい美術館となった日本建築の名美術館の魅力を探ります。
建築家 今里隆
両国国技館
1928年 東京都に生まれる
1949年 東京美術学校建築科卒業
(現東京藝術大学)
1949年 吉田五十八研究室勤務
1964年 杉山隆建築設計事務所創設
1970年 今里廣記の養子となる。
1988年 東京藝術大学客員教授
今里隆氏は、数寄屋建築を再生させた吉田五十八氏の吉田研究室に約20年務め、独立後は成川美術館などの美術館や両国国技館、池上本門寺大客殿を設計した日本建築の第一人者です。
松平公益会事務所(第3回高松市都市景観賞受賞)
建築家 吉田五十八
日本芸術院会館
1894年 太田胃散の創業者太田信義の子として生まれる
1915年 東京美術学校図案科第2部に入学
1923年 卒業後吉田建築事務所を開設
1946年 東京美術学校教授に就任
1974年 逝去。享年79
吉田五十八氏は、1925年学生時代から心惹かれたモダニズム建築を見にヨーロッパに訪問するも、ルネサンス建築やゴシック建築などの古典建築に強く感銘。
それらは、伝統や民族性の前提があるからこそ出来たものであり、日本人には到底できるものではなく、日本人である自らにしか作り得ない建築は何かと考えるうち、過去の建築様式となっていた数寄屋造の近代化にたどりついた。戦後は美術館、寺院や公共施設などを手がけ自身の手法をさらに進化させていった。
吉田茂邸、惜櫟荘(岩波書店の創業者岩波茂雄氏の別荘)、大和文華館などがある。
画家 平山郁夫
日本芸術院会館
1930年 広島県瀬戸田町生まれ
旧制広島修道中学3年時に原爆で被曝
1947年 東京美術学校に入学
1973年 東京藝術大学美術学部教授に就任
2001年 東京芸術大学学長に就任
2009年 逝去。享年79
平山郁夫画伯が原爆の放射能症で苦しんだ時に平和を祈る作品として描いた「仏教伝来」が院展に入選して以降、仏教の世界を描いていった。その後、平和を祈る心と仏教の源流でもあるシルクロードへの憧れを一層強く持つようになり、東洋・西洋の交易路かつ文化の交流、仏教伝来の道でもあるシルクロードをテーマにして制作した連作絵画は有名です。
平山郁夫画伯との出会い
1971年に今里隆氏が設計した日本美術院の竣工式において、来賓者の到着が遅れ待っている間、司会を務めるために来ていた平山画伯と話をすることができた。
会話の中で、平山画伯より日本美術院の建物がよくできていると褒めていただくと同時に、突然「私の家もつくってくれませんか」との依頼を受けた。それは、先日購入した鎌倉の土地に建てる家を設計してほしいとの話であったが、家については「すべてお任せします」とのことであった。
平山邸は、中庭を軸に方形を取りアトリエがL字型に出た外観とし、躯体はコンクリートであるが、一見すると木造平屋建てに見える仕上がりとした。
なんとか日本画家の平山画伯の家らしく感じてもらえるものをつくることができた。
「すべてお任せします」だけの依頼であったが、施主の希望を心の中まで読みとって適えるのが建築家の仕事であった。
平山郁夫美術館計画
美術館をつくる計画は、竣工の10年も前から持ち上がっていた。瀬戸田町長が非常に熱心に計画を推進し、町役場をきれいにするよりも先に美術館を建てたいと言われて、自ら中央省庁に出向き、ようやく実現に向け動き出した。
このときも平山先生からの注文は「私の作品を展示する美術館を」という一言だけで、具体的な要求はなかった。美術館用地も決まっていなかったため、今里隆氏は生口島を訪れ、役場の職員と一緒に場所探しを始めた。
美術館用地の決定
生口島は風光明媚なところであり、用地の候補地はいくつもあったが、美術館にふさわしい条件は厳しくなった。
- 瀬戸内の景色が一望できるが、山の中腹では交通の便が悪く、人が集まりにくい。
- 海に近いところでは、潮風で作品や建物を傷める恐れがある。
概略図
最終的に決まったのは、「西の日光」といわれる耕三寺があり、観光客もたくさん訪れる場所となった。ただし、その用地は、大きな建物を設計するには不都合な点が多い細長い敷地であった。
建物配置
通常考えるのは、細長い建物の中央に入口をつくって、左右に展示室を振り分ける配置が一般的である。
一般的な建物配置イメージ図
今里隆氏は細長いという短所を「奥行き」という長所にするプランとした。それは、銀閣寺のアプローチをイメージしたものであった。
銀閣寺の配置
銀閣寺マップ
総門を通って右に折れると、約50mの細い参道に出る。
道の両脇には、石垣と緑の生け垣からなる銀閣寺垣が続く。
参道の先は突き当り。
そこまでの距離を、高さ4mにも及ぶ銀閣寺垣が壁となって、訪れた人の視線から境内を隠す。
この先にどんな光景が待ち受けているのだろうかと、参道を歩きながら拝観者は期待をふくらませる。
そして、突き当りを左へ、中門をくぐると、その右手にようやく国宝の銀閣がみえてくる。
銀閣寺ではあえて境内を隠し、少し歩かせるアプローチを細長い敷地に活かした配置となっています。
平山郁夫美術館の配置図
平山郁夫美術館配置概略図
道路側の塀の外側からは、建物の屋根と壁しか見えないようになっている。門をくぐり、敷地の東側の庭を囲む塀に沿ってアプローチを進み、右に曲がったときに初めて美術館の正面が見えてくる配置となっています。
周囲の景観とのバランスを大切にしており、側面は低く落着いたプロポーションにし、背景に見える山の稜線を意識した造りとなっている。
アプローチは庭園に沿っているが、庭園は塀で囲われているので、庭園を目にするのは、美術館の中に入ってからとなっている。エントランスに入るまではあえて見せない演出となっている。
「日本建築の美しさは屋根にある」建築家を志した当初から抱いていた今里隆氏の揺るぎない思いが具現化されています。
平山画伯は完成した建物を「平屋で単純で、しかも重厚な日本瓦の切妻造りは圧巻です。しかも建築に品位があり、さりげなく立つ様は優雅で、親しみがもてる」と評した。
奥の下草の緑を海に見立て、植え込みは島々をイメージした築山とし、縦長の庭を瀬戸内の風景としてつくりあげています。
庭園のデザインは、今里隆氏と世界各国で日本庭園を作庭している造園家中嶋健氏が相談してつくりあげています。中嶋健氏は、吉田五十八氏とのコンビにて吉田茂邸の造園などを手がけています。
美術館設計
- 中に展示されている絵画や彫刻、工芸品が主役であって建物はそれを鑑賞するのにふさわしい場所となること。建物のデザインばかりが主張されると、展示されている作品の魅力が色褪せてしまうことがある。
- 絵画や彫刻などを展示するためのよりよい環境づくりであり、建物が主役になってはならない。
- 来場者が心置きなく作品を鑑賞できる空間をつくり、美術品が傷むことのない光線と空調を設置すること。
平山郁夫美術館は、平山画伯の「平和への祈り」というメッセージの具現化であった。
瀬戸内の風土に溶け込みながらも、大地にどっしりと構えた存在感。門をくぐり、アプローチを通って目にする建物正面が、背景の山並みと重なる一体感。館内から見る瀬戸内の風景をイメージした庭。木のぬくもりから感じ取られる生命力。設計の根底には「平和への祈り」を形にしたいという、強い想いがあった。