旧岡山美術館(林原美術館)の魅力を探る|建築家 前川國男

岡山の名建築

林原美術館

林原美術館は、52歳の若さで亡くなった実業家林原一郎が蒐集した絵画や工芸品と旧岡山藩主池田家から引き継いだ大名丁度品を中心とするコレクションによって構成された美術館。前川國男が初めて手がけた美術館は、岡山城内堀近くの岡山城二の丸屋敷跡であり、ロケーションを意識したつくりとなっていた。林原美術館の魅力についてみていきました。

林原一郎

林原一郎氏は、1908(明治41)に水飴製造を行う林原商店の三代目として生まれた。大阪市立大学を卒業後、京都大学科学教室で飴の製造法を研究。1935(昭和10)年に酸麦二段糖化法を導入し「太陽印水飴」として国内だけでなく中国大陸方面へ販路を拡大して、林原の基盤を固めていった。
1945年米軍の岡山空襲により工場を焼失するが、翌年には水飴製造を再開し、水飴販売で巨万の利益を上げた。戦後の甘味不足の時代に、次々と事業を拡大し、カバヤ食品の設立などにも携わってきた。

林原一郎銅像

林原一郎銅像

林原家当主であった林原一郎氏は、少年時代から剣道に親しんでいたことより、学生の頃から刀剣の収集を始め、備前刀などの古刀や日本陶器、中国漆工芸などを収集していった。また、岡山藩主池田家の家臣の家柄でもあったことから、相続で困窮する池田家の援助を惜しまず、岡山城二の丸の旧対面所跡の土地や池田家の大名調度や美術品などを買い受けていった。池田家の名品を林原一郎氏が集めたことにより、結果的に岡山ゆかりの大切な文化財が散逸することなく、岡山で保存されたことはとても大きな功績であった。

林原美術館

52歳の若さで亡くなった林原の三代目社長林原一郎氏が蒐集した日本をはじめとする東アジア地域の絵画や工芸品と池田家から引き継いだ大名調度品を中心とするコレクション約9,000点を収蔵する美術館として遺族や三木岡山県知事により財団法人林原美術館が設立された。設計は前川國男氏が担当し、1964年岡山美術館として岡山市に初めて美術館が開館した。1986年に林原美術館に名称変更された。

 

林原美術館は、林原一郎氏が池田家から買い受けた岡山城二の丸屋敷で対面所(迎賓館)があった場所につくられた。この地域は、1950年代からの戦後復興では、岡山県庁舎や岡山市民会館など岡山の中心的かつカルチャーゾーンとして様々な施設が集積していった地域であった。
林原美術館周辺地図

林原美術館周辺地図

この時期に前川國男氏により岡山県庁舎(1957年)、岡山県総合文化センター(1961年)、林原美術館(1963年)また、同時期に佐藤武夫氏により岡山市民会館、山陽放送会館がつくられていった。

林原美術館の特徴

長屋門

入口門は、本瓦になまこ壁という格式の高い和の佇まいを感じさせる長屋門。この長屋門は、岡山藩の支藩生坂池田丹波守の向屋敷のもので、明治末に移築されたものである。

林原美術館長屋門
林原美術館長屋門

壁面

入口門を入ると、松をベースとした日本庭園のような植え込み、野面積みされた和の石垣の上にコンクリートとレンガという異なる素材の組み合わせが特徴的な壁面を構成している。古き日本の佇まいに、モダニズムの美術館が共存している。58歳の円熟期に入ろうとする前川國男氏の味わい深いつくりとなっていた。
 

林原美術館の壁面
林原美術館外壁
 
窓のない展示室棟の外壁全面に利用された焼き過ぎレンガは、廃棄されたものを拾い集めて使ったものと言われている。形・色ともに不揃いでラフな見た目となっているが、なにか人の手を感じさせる。この焼き過ぎレンガは、それまで前川國男氏が追求してきた近代建築を象徴するガラスやスチールとは明らかに異質な素材であり、その後の打ち込みタイルの建築手法につながる意匠となった。

美術館建物

美術館は、長屋門をくぐり、和のアプローチの先の緩やかな石段の上に建っている。それは、前面の松を中心とした日本庭園の奥にひっそりと佇むような配置となっています。そして、建物は鉄筋コンクリート打ちっ放しの平たく水平力の効いた外観となっています。
 

林原美術館アプローチ

流政之による造園設計

竹林が植えられた光庭を中心に左廻りに展示室からエントランスまで一巡できるプランとなっています。これは、前川國男氏の言葉である「プランに動きがなきゃいけない」「プランを練っていくと良いプランは自然に一筆描きで描けるようになる」を実践している。これは、ル・コルビュジエの国立西洋美術館とも通じるところがある。
 
林原美術館経路概略図

林原美術館経路概略図

 
一方でル・コルビュジエは、建物の全容のプロポーションが眺められることを欲し、前面には一本の木も存在しないが、ここでは日本庭園の奥の小高い敷地に建物がひっそり佇んでいる。また、長屋門からは斜めからのアプローチとなっており、はっきりと建物の全容を眺めることはできない。

美術館内は中庭を中心にロの字にロビー、展示室、カフェなどのスペースが構成されている。中庭にも古レンガの壁で囲われており、落ち着いた、温かみのある雰囲気が演出されている。

林原美術館 中庭

ロビーのラウンジは背後の事務室とともに展示経路から750㍉レベルのさを設けることで、空間領域に変化をつけ南庭とつなげている。

前川國男による林原美術館
林原美術館ラウンジから見た南庭
林原美術館中蔵と東蔵

中蔵と東蔵

 
前川國男氏は、ル・コルビュジエに師事し近代建築の洗練された構法に取り組み、ル・コルビュジエの特徴をふんだんに取り入れた旧岡山県総合文化センターなどをつくっている。しかし、ここでは、近代建築でありながらも、周辺環境や収蔵品などを意識した日本的な美術館をつくりあげている。円熟期を迎えた前川國男氏の転換点となった林原美術館は静謐な空間となっていた。

 

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同じル・コルビュジエ建築に憧憬を持った同世代である東京大学教授の丹下健三氏は神聖な造形美、モニュメンタルな建築を主体とした。一方の京都大学教授の増田友也氏は哲学的思考に基づく建築論を専門とし静かな存在感を主体としていた。鳴門市文化会館は増田友也氏による渾身の遺作となった。