建築家隈研吾によるマツダの商業ビルM2(1991年竣工)は、「バブルの象徴」と揶揄され、批判を盛大に浴びる結果となりました。また、その直後に事故により右手を負傷。利き手が不自由となるなど苦難の時に手がけたのが、見えない建築亀老山(きろうさん)展望台でした。隈研吾の新たな新境地となった亀老山展望台の魅力をみていきます。
建築家 隈研吾
新国立競技場
経歴
1954年 横浜市生まれ
1979年 東京大学大学院工学部修士課程修了
日本設計、戸田建設に勤務
1990年 隈研吾建設都市設計事務所を設立
1991年 ドーリック南青山ビル、M2ビル竣工
M2ビル以降東京での仕事が絶えた
1994年 梼原町地域交流施設、亀老山展望台竣工
2002年 ADK松竹スクエア竣工(東京の仕事復活)
2009年 東京大学工学部建築学科教授に就任
2012年 長岡市シティホールプラザアオーレ長岡竣工
2013年 マルセイユ現代美術センター竣工
2018年 高知県立林業大学校の初代校長に就任
2019年 国立競技場竣工
バブル時の作品
80年代に世界を席巻したポストモダン建築に挑んだ隈研吾氏の初期の作品M2ビル。中央を古代ギリシャの建築様式であるイオニア式の円柱が貫き、その中をむき出しのエレベーターが上下するカオスな建物であった。
ロードスターのショールームを兼ねたマツダの拠点として造られた。バブルであった東京のカオスを現代建築に翻訳しようとして設計され、「反20世紀」的な際立った特別な建物であったが、隈研吾氏の意図は伝わらず、建築業界からは激しいブーイングにさらされた。
マツダはその後売却し、現在は東京メモリアルホールが葬祭会館として利用されている。
なお、自動車のショールームから葬祭会館に用途が変わることを聞いた隈研吾氏は「転用は面白い。建て主が変わっても対応できる空間の強さを持っていたということだ」(日経アーキテクチュア2002年11月25日号ニュースから引用)とポジティブにとらえていた。
右手がダメになって
M2の竣工後、作業中の事故により利き手の右手を負傷し、手術後も不自由となり、自信のあったスケッチが出来なくなっていた。
利き手である右手が不自由になって気づいた変化は、それまでは、能動的で素早い主体であったが、不自由になったことで環境に対して受動的な、ゆっくりとしたゆるい存在へと「変身」していたことであった。
主体と身体が分離したことで、初めて身体を実感することができた。そして、受動的な存在になることで、感覚が開くようになり、いろいろなものが聞こえ、見えてくるようになったのである。
そして、隈研吾氏の興味は東京から地方へ向かっていった。
見えない建築亀老山展望台
地方で手がけた第一号は、「町のモニュメントになる目立った展望台」として要望のあった愛媛県の大島にある吉海町の「亀老山展望台」でした。
当初は要望に沿って木や石、ガラスを素材にしたモニュメントを考えたものの、あまりしっくりこなかった。だったら「山の中に展望台を埋めてしまったらどうだろう」でした。
それは、町長の要望とは真反対に周囲の中で「目立つ」のではなく、「ひたすら目立たない」ということの追求でした。
今治市HPより
展望台入口
展望台は、本来見るための装置であるにもかかわらず、多くの展望台は、見られるものとして、環境の中に突出していた。これを反転することが、このプロジェクトの目的であった。
ピロティの流行が地形という制約をなかったことにし、コンクリートの上に貼り付けるペラペラの材料を「素材」と呼び換えるなど「自然」を無視する建築となっていった20世紀のモダニズム建築に疑問を抱いた隈研吾氏は「地形」の力を思い出させようとデザインしたのが亀老山展望台であった。